2021-07-19

●講義のために読み込んでいるのだが「代書人バートルビー」は、読めば読むほど面白い。調べたら、この小説には、酒本雅之、土岐恒二、坂下昇、柴田元幸牧野有通平石貴樹、 高桑和巳という七人の訳者による翻訳があるらしい。すべての訳を精査したわけではないが、「I would prefer not to」の訳として「せずにすめばありがたいのですが」とする酒本雅之の訳が日本語として面白いと思ったので、講義ではこの訳を使わせてもらおうと思う。

理由のない(非合理的な)徹底した一貫性をもつバートルビーの様が、常に揺らいでいて結論のだせない(常識的で、合理的で、良心の声に従い、そしてうっすらと胡散臭い)話者の視点から描き出される。小説の記述は、バートルビーの想定外の振る舞いに対して戸惑う話者が、感情や考え、バートルビーに対する態度などを定めることが出来ず、常に揺れ動いているその動きの軌跡が描き出される。また、話者はどことなく信用出来ず(自分の平和の薗=事務所に、精力的、神経質、狂乱といったものをもちこんだことはないと語るのだが、彼の雇う代書人たちの振る舞いは、まさにこの三つの語によって表現されるようなものだ)、腰が据わらず薄っぺらだが、同時に、常に「良心の声」に耳を傾け、最大限に寛容であろうと努力する。語り手の内声は俗っぽさと良心との間を行ったり来たりしながらも、常に「良心」の方へ戻ってきて、それに従う行動をする。そして、バートルビーの行動の常識からの逸脱度合いが増すにつれて、「良心」の話者に対する要求は大きくなり、話者の負担も大きくなる。それでも話者は(揺れ動き、とまどい、ためらいながらも)「良心の声」に忠実であろうとするが、バートルビーの(非合理的で、理由がいっさい存在しないが故に)一貫してブレることのない逸脱性は、良心の呼び声が届くところを超え出た先にある。話者の良心は決してバートルビーに追いつくことはなく、バートルビーは良心(寛容)による包摂の外側で、たった一人で静かに消滅するように死ぬ。墓場(拘置所)の場面で、「バートルビー」と声をかける話者にバートルビーは、「あなたのことは知っています」「でもお話しすることは何もありません」と言う。

話者は、初対面の段階で既にバートルビーにある種の崇高を感じている。《ある朝一人の青年が事務所の入り口にひっそりと立った。夏だったからドアがあいていたのだ。いまでもその立ち姿が目に浮かぶ。生気に欠けるほど身だしなみがよく、哀れになるほど上品で、癒しがたいほど孤影悄然、これがつまりバートルビーだった。》この崇高が(おそらく本来とても世俗的であろう)話者に良心と寛容とを要請する。だが、話者は自分の感じている崇高性の感情を、まずは「寄る辺なく孤独な者への同情・哀れみ」と解釈する。話者はこの解釈に従って、(とまどい、呆れ、怒りながらも)バートルビーのためを思って、バートルビーの味方であるような存在であろうとする。理不尽に事務所に居座るバートルビーのために、最後には自宅まで提供しようと提案する。つまり「愛」をもってバートルビーにかかわろうとする。しかしバートルビーは「愛」とはまったく無縁の存在であり、彼の崇高さ、《哀れになるほど上品》であることは、「愛」をまったく持たない自己完結性にあると思われる(できません。いまはこのまま変わらずにいるほうがありがたいのです)。踊り場の手摺りに座っているバートルビーに話者は「こんなところで何をしている」と問うのだが、バートルビーは「手摺りに座っています」と応える。このとりつくしまのなさこそがバートルビーの崇高性であるように思う。

良心や寛容や愛によってでは決して届くことのない先にいるバートルビーに、話者がもっとも近づいた瞬間は、下に引用する場面だったのではないか。

《徐々にわたしは、代書人に関してわたしにふりかかったこれらの災難が、すべて悠久の過去から予定されていた運命で、バートルビーはわたしごときただの人間風情には測り知れぬ全知の神の不思議な何かの思し召しから、実はわたしのところに割り当てられたのだと、いつしか確信するようになった。いいよ、バートルビー、屏風のなかにそのままいてくれ、わたしは思った。もううるさいことは言わないよ。君はこれらの古椅子のどれにも負けず無害だし音もたてない。要するにだ、わたしは君がここにいると分かっているときぐらい、自分ひとりに帰れるときはないよ。やっと分かった、心からだ、わたしはわたしの人生を、神意のさだめどおりにとことん生きてみる。それで満足だ。もっと高尚な役割りはほかのやつらに演じさせればいい、わたしのこの世でのつとめは、バートルビー、君がいたいと思うだけ君に事務所の部屋を用立てることさ。》

この悟り、《君がここにいると分かっているときぐらい、自分ひとりに帰れるときはない》という発見。これらはしかし、「同業者からの評判」によってかんたんに反対方向にひっくり返るのだった(このがまんならぬ夢魔を永久に追放しようと決心した)。

(話者は、「衡平法裁判所主事」という特権的な既得権をもつ役職にあり、この役職は彼の《懐をぬくぬくと暖め》る。この物語はこの役職により話者が裕福であった頃の話であり、しかし、これを語っている現在においてはこの役職は廃止され、話者は以前ほど豊かではないようだ。)