●「代書人バートルビー」の書き出しは次のようなものだ(酒本雅之・訳)。《わたしはすでにかなりの年配だ。職業柄、この三十年来、わたしがひとかたならぬつきあいをしてきた相手は、興味深く、少々風変わりで、わたしの知るかぎり今までのところは何一つ文字に書きとめられたことのない連中だった。法律文書の筆耕たちのことで、つまりは代書人だ。》ひたすら文書を書き写す人のことを、未だかつて誰も書いていないという皮肉でもあるが、ここで作者のメルヴィルは(話者の声を媒介として)、今までの文学によっては書かれたことのないような人物について、これから書くのだと宣言していることになる。近代的な小説というのはつまり、それ以前までの文学では書かれたことのないような題材について書くということであるのだなあと思った。
●「バートルビー」のオチ(オチという言い方は適当ではないが)である「配達不能郵便(デッド・レター)」というアイデアは、きわめて鋭利であるが、それ故に、「バートルビー」という小説の読解の可能性を強く限定してしまうものでもある。「配達不能郵便」は、メルヴィル自身による、自分が書いた(書いてしまった)「バートルビー」という像に対する、非常に鋭い一つの解釈であり、この解釈の提示によって小説が閉じられるのだが、でもこれが唯一の正解というわけではないと考える方がいいと思う。つまり、正解としての「配達不能郵便」から遡って本文を読むということはしない方が良いのではないかと思われる。あくまで、バートルビーというあるイメージがあり、それに関するあり得る一つの解釈として「配達不能郵便」がある。しかし、必ずしも、バートルビーという不可解な像が「配達不能郵便」という概念へと着地しなければならないということはない。読者はむしろ、メルヴィルが提示した「答え」とは別の答えを探る方がよいのではないか。読むということは、そういうことなのではないか。
(まあ、ブランショもドゥルーズもアガンペンも、ふつうにそうしているのか…。)
●「バートルビー」という小説では、バートルビーはあくまで話者の視点から捉えられたものだ。つまり、話者とバートルビーとは切り離せない。観察者と観察対象は渾然一体であり、バートルビーという像の造形のためには、話者のような人物が必要だった。世俗、資本主義、(社会的に可能な範囲での)キリスト教的な良心や寛容。そして、常にうっすらと漂う信用ならなさと胡散臭さ。これらのもつ限定のなかにある話者がいるからこそ、そこから常に不気味に漏れ出てしまうバートルビーの像があらわれる。話者は、どこまでもバートルビーに届かないが、しかし同時に、すでにバートルビーの分身でもある(《わたしは君がここにいると分かっているときぐらい、自分ひとりに帰れるときはないよ》)。でも、カフカやベケットになると、そこにバートルビーしかいないという状態になる。媒介的話者を通さない、いきなりバートルビー状態。バートルビー的な視点からみられたバートルビー、あるいは、バートルビー自身のよる自分語りになるのではないか。
●調べてみたら(ググっただけだが)、「バートルビー」は、アンソニー・フリードマン監督(1969年)、モーリス・ロネ監督(1970年)、ジョナサン・パーカー監督(2001年)と三回映画化されており、他にも、ドイツの前衛映画作家クラウス・ウィボニーによる「Bartleby」という作品がある、ということのようだ(モーリス・ロネは、『死刑台のエレベーター』や『太陽がいっぱい』に出演しているフランスの俳優)。アンソニー・フリードマン監督による映画は、全編(28分)、YouTubeで観られる。
『Bartleby』(1969年)(28分) 監督アンソニー・フリードマン
https://www.youtube.com/watch?v=7htA6VJAcMU
クラウス・ウィボニーの作品は、こんな雰囲気のようだ。