2021-04-19

保坂和志の「小説的思考塾 配信版 vol.3」の話題で強く興味を感じたのは、卵としての過去という話だった。ドゥルーズは、ニワトリが産むのは卵だが、卵がニワトリになるとは限らない(突然変異で「別のものになる」可能性がある)とし、卵が先かニワトリが先かという議論で、答えは卵が先なのだとする、と。ニワトリは、ニワトリでないものの突然変異した卵から生まれた、と。

同様に、過去というのは卵であって、つまり過去とは、必ずしも「現在」に行き着くとは限らない、様々な可能性が存在する場所だと考えられる、と。過去から、様々な分岐があり得、その様々な分岐のなかのたまたま一つが「現在」であるに過ぎない。同じ過去のなかに、今、我々が属している「現在」とは「別の現在」の可能性が孕まれている。だから、我々がたとえば過去の写真に強く惹かれるのは、そこにノスタルジーを見いだしているのではなく、「別の現在の可能性」がそこには裸のままであるからなのだ、ということになる。

この話から、ぼくはエリー・デューリングの「レトロ未来」という概念を想起した。というか、ぼくは保坂さんの『ハレルヤ』という本の書評に、保坂さんの小説からエリー・デューリングを想起されたということを書いていたのだったと思い出した。以下、「おとぎ話が跳ねる経験とレトロ未来」(「群像」2018年11月号)から。

《「こことよそ」で話者は、過去(二十代の頃)の自分の明るさと暗さに触れている。若くあることそれ自体の圧倒的な明るさと、小説家志望でありながら未だ小説家ではないことによる屈折だ。しかし、未だ小説家ではないという暗さは、既に小説家であるしかない現在時の話者にとって、(ジュネにとってのフェダイーンの少年たちのように)それ自体が輝くような確定されない可能性の放射でもある。現在時にいる話者はそのような過去に触れる出来事を経験し、改めて驚き、跳びはね、喜んでいる。この小説を読むということは、読者が自らの過去ではないそれらの事柄をおとぎ話のように思い出して驚き喜ぶことだ。》

《「こことよそ」の現在時の話者は、過去に触れているだけでなく、過去の自分が現在の自分と出会う場面を想定しもする。しかし可能性の放射としてある過去の自分は、未来(現在)の自分に触れても響くものがない。この非対称性は、現在時の話者が過去の自分の無数の可能性のうちの一つの姿でしかないことを示している。》

《フランスの哲学者エリー・デューリングは「レトロ未来」という概念を提出している。難解な概念だが、乱暴に要約すれば、「未来」は実現されることを待機している出来事、私たちの前に広がる時間の領野といったものではなく、現在と並行して共存し、現在のなかで活動している潜在的なものとしてあるという考えだ。》

《「現在」は、「過去からみた未来」と二重化されている。ならば現在は、過去から伸びた未来の無数の可能性がそのまま潜在的に共存している場だということになる。未来は前にあるのではなく、潜在的な並行世界として横にある。「こことよそ」の二十代の話者のもっていた放射する可能性は、話者が既に小説家となった(小説家であることが確定した)現在において消えてしまったのではなく、過去の時点から複数の可能性のまま進展していて、レトロ未来として、現在と並行し潜在的に共存しているということだ。》

https://note.com/furuyatoshihiro/n/n3aecf4fff09c

●この話との関連で、パラジャーノフという名前が出てきて、その名前を久々に聞いて、おおっと思った。『ゴダールの映画史』(映画ではなく本の方)でゴダールが、映画というものが、今、一般的にそうであるようなものではなく、パラジャーノフのような形式の方が普通であるような現在もあり得たはずだと書いている、と。パラジャーノフは今、ソフトが高騰してしまっているけど、字幕無しでいいならYouTubeで観られるものもある。

ざくろの色

https://www.youtube.com/watch?v=aPtxS1c-fGA

アシク・ケリブ

https://www.youtube.com/watch?v=1E7R_zqgRcI

スラム砦の伝説

https://www.youtube.com/watch?v=wk56xsHKtSM

精神分析の話も多くあった。たしかに、フロイトは直に読んでも大丈夫だと思われるが、ラカンはもとより、ラカン関係の本は、精神分析的な思考法や用語法にある程度慣れていないと、なかなか入っていけないと思う(それに慣れるということが「概念の定義・配置・領域が変わる」ということだが)。たとえば、精神分析で用いられる「解釈」という語は、我々が普通にその語から受け取る意味とはずいぶん違った意味をもつ。以下、『疾風怒濤精神分析入門』(片岡一竹)より、「解釈に意味はない」という節の引用。

《だから解釈は、「ほう」とか「へえ」とかいう頷きでもよいし、話の趣旨と全く関係ない細部を追求するようなものでもよいわけです。

例えば、「私はその日、朝の十時に家を出て……、帽子を被って出たんですけど、……彼と会った時に睨まれているように思って……もう目を見ていられなくて……」というようなことを患者が言ったとします。

そこで普通のカウンセリングならば「それは辛かったですね……他にどういう時に同じような気持ちになりますか」などと、共感しながら聞き返すでしょう。あるいは、一般的にイメージされている精神分析では「あなたの父親に対する恐怖が彼に転移したのです、目とは、あなたに欠けている知性の象徴です」というように意味付けをするでしょう(これもまた、意味不明な解釈ですが)。

しかしラカン精神分析においては、「帽子を被っていたんですか。帽子が好きなんですか。よく被るの?」というような解釈をするものです。言うまでも無く、この話(パロール)において帽子は大した意味を持っていないわけですが、だからこそ分析家はそこに注目するのです。なぜならそのことで、この話をした時には思いもしなかった、帽子に関する問題が発覚するからです。そこから、何か重要なことが出てくるかもしれません。

分析家の解釈はたいていの場合突飛で。面食らわせるようなものです。しかしそういう一撃(クー)があるからこそ、全く新しいことが言えるようになるのです。なまじ自分の言ったことが理解され、共感されれば、それに味を占めてしまい、症状が改善されないまま、いつまでも同じような話をし続けるでしょう。それでは人生の転機など訪れません。》