2021-04-18

保坂和志の「小説的思考塾 配信版 vol.3」で、話のマクラとして使うために「人は人に対して、どのように、権力・支配力・優位性を行使するか」という資料が配付されたのだが、これはとても重要なものだと思った。はっきりと分かりやすい立場や力の差があるような場面ではなく、日常的で、フラットな関係にあるようにみえる人々が集まる場において、微妙に優位に立とうとしたり、人を抑圧しようとする人が、それとははっきりみえないような形でとる言動のサンプルが10個書かれている。有料のイベントで話された内容をむやみに外に漏らすのはよくないのだが、これはすごく重要だから(状況の理解という意味でも、自分がそれをしないという自戒のためにも)広めたいという気持ちがあり、例を二つだけここに書きたい。

一つ目は、保坂さんが学生の頃に、自主映画の撮影のための合宿に参加した時の話。10人以上の人が参加した合宿で、プロデューサーのような人もいた。宿での夕食の時、おかずがちょっとだけ残っていた。その時プロデューサーが、「保坂、これ食べちゃえよ」というようなことを言った、と。なんということもないようにみえるが、これははっきりと、自分の立場の優位性を相手に対して示すような言動と言える。こういうちょっとしたことを、折に触れてちょいちょいやることによって、関係の優位性を相手に認識させようとする。公的であれ私的であれ、フラットな関係にあるような集団でさえ、こういう形で軽い支配-被支配関係を作ろうとする人がいる。

もう一つ。「痩せたんじゃないの?」「大丈夫ですか?」など、心配するそぶりをみせることで微妙に優位に立とうとする人がいる、と。心配するそぶりによって、心配する能動的立場と、心配される受動的立場という非対称性を強いる。これは保坂さんが挙げた例ではないのだけど、思いつくのは、幼いきょうだいの、上の子が下の子に対して、こういうやり方で優位性を示すことがよくあるように思う。それを見た大人は、「さすがお兄ちゃん、優しいね、えらいね」みたいなことを言うのだけど、これは明確にマウントをとりにいっている行動だと思われる。

●保坂さんの挙げた例よりも、ずっと強い意味での「支配」だけど、小田原のどかのツイッターでの発言が強く印象に残っている。

《私自身、学生時代付き合っていた相手から、常に点数をつけられていたという経験があります。いつも低い点数をつけられて、「お前の価値を決めるのはお前じゃない」と「わからせる」わけです。「悔しかったら俺を認めさせろ」と。いま思い出しても震えるほど腹立たしい。》

https://twitter.com/odawaranodoka/status/1382508703627108352

以前、ある新人賞の選評で、審査員の一人が、受賞作についてかなり強めの否定的なコメントをして、最後に「悔しかったら俺が認めるような作品をつくれ」ということを書いていた。それを読んで、この審査員がなんでそんなに奢ったことを言うのか理解出来なかった。作品に対して否定的ならば、否定的だということのみを示せばよいはずだ。あなたが認めないのはあなたの勝手だが、この新人作家は、別にあなたに認められることを目的として作品をつくっているわけじゃないでしょう。実際、あなたに認められなくても、ちゃんと他の審査員たちに認められて新人賞を受賞したのだし、と。小田原さんのツイートを読んで分かったのは、この審査員は、「お前のために厳しく言ってやってるんだ」という形で、支配権を自分の側に置いておきたかったのだろうということだ。

●とはいえ、非対称的な関係がいつも必ず悪いとは思わない。たとえば、師匠と弟子、精神分析における分析家と分析主体、あるいは親分と子分といった関係など、非対称的関係であることによってしか作動しないポジティブなものもあると考える。

●その上で…。場を支配しようとする人は、良い側面をみればリーターシップがある人ということにもなるのだろう。個人的なことだが、ぼくはその場のリーダーシップをとろうとする人が子供の頃から駄目だ。駄目、というのは、嫌い、というより、うまくいかないというか、親分オーラに巻き込まれることができない。親分気質の人は、支配下の人に優しいし、利益を誘導してくれるし、敵から守ってもくれるのだが、そういう人に「懐く」能力が無い。意思の力をもって抵抗しているのではなくて(親分気質の人には好ましい人も多いので出来るなら良い子分になりたいとすら思う)、集団縄跳びに入っていけないみたいな感じで、親分気質の人が好意を示してくれても、ぼくの方もその人に好意を持っていたとしても、噛み合わず、微妙な空気になってしまう。子分の才能がない(もちろん、親分の才能はもっとない)。これはぼくの人格的な欠陥だと思っている。

もっとも顕著なのは、ぼくは今まで、「教師」という立場の人と良い関係になったことが一度もない。力の決定的な非対称性があり、ある明確な人格をもつ「師」という存在からしか学べないことというのがあると思うのだが、そういう意味での師をもつことができない。

(親分の才能がないということは、親分的な抑圧的行動をとらないということではない――権力は個人的な資質によってではなく関係性によって発生する――ので、自分を省みることは常に必要だ。)

これは、精神分析的に言えば、人に対して「転移」が起こりにくい体質だということだと思う。教師(師匠)と生徒(弟子)みたいな関係が、本当に上手くできない。カリスマ性のある人が苦手だ。だからぼくにとっては、転移の対象は人ではなく「作品」であり「テキスト」なのだと思う。というか、「作品」や「テキスト」を介することによってしか人に転移できない。師弟関係になると必ず上手くいかないので(カリスマ性のある人とは必ず噛み合わないので)、尊敬する人とはできるだけ距離をとって、「作品」「テキスト」を介して学ぶということになってしまう。「師」は、「作品」や「テキスト」という形でならば多く存在する。

(芸術というのは基本的に、近い師匠=実際の教育者よりもずっと、遠い師匠=古典的作品から深く多くを学ぶものではないかとも思う。)