●高円寺のグリーンアップルに、百瀬文の上映を観に行った。上映された五作品のうち『Calling and cooking』『定点観測[父の場合]』『The Examination』は既に観ているから、はじめて観たのは『The Interview about Grandmothers』と『聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと』の二本。
「聞こえない木下さん…」は、さすがに評判になるだけあってすごく面白い作品だった。この後、(横浜美術館で展示された)『The Recording』へと発展してゆくほとんどすべての要素が既にここにある感じ。ただ、「聞こえない木下さん…」と「The Recording」との違いは、後者が複雑なメディアの操作によって実現しようとしていることを、前者はパフォーマンスによって「一つの場」のなかで実現しようとしているところだと思った。「聞こえない木下さん…」で、最初、百瀬さんの発語がちょこちょこおかしくなる部分を観ている時は、音声を後から加工しているのかと思ったのだけど、終盤になって発語が本格的におかしくなってきて、いや、これは本当にこの場でこれをやっているのか、と驚いた。
(「聞こえない木下さん…」は、サスペンス映画とかによくある構造とも言えて、AさんがBさんを騙しているのを、観客は知っているのだが、Bさんは知らない、という形になっている。勿論、実際の木下さんは、百瀬さんがこのような意図で作品をつくろうとしていることは知っているのだろうが、このパフォーマンスによって成立している「この場」の関係は、そのような非対称的な構造になっている。これは、「Calling …」で、百瀬さんと元彼との会話を観客が聞いていることを、百瀬さんは知っているが元彼は知らない、という構造とちょっと似ている。つまり、「ある(非対称的)構造」を、具体的関係性を操作することでつくりだし、そのような「構造をもった状況」を示そうとしている。通常、その非対称的関係において、状況を操作する「作者」の側に優位性がある。ただ、「聞こえない木下さん…」という作品が優れているのは、関係=構造の提示だけで終わっているのではなく、そのように仕組まれた構造が、構造そのものによって、その構造を支えている秩序――発話者・声・発語の一致――が瓦解してしまうということを示しているからだと思う。「騙す」という行為そのものが「騙す側の優位性」を支えている根拠を揺るがして、その結果、その場に不思議な、非対称的な平等性を浮かび上がらせる。さらに、それだけでなく、そのことが「観客」に対して、知覚の再編成を促すことに繋がる。)
「The Recording」は、メディアの複雑な操作そのものが面白いと言えるのだけど、「聞こえない木下さん…」では逆に、メディア的操作なしに「この状況」が成り立っていることによって、「この場」が揺らいでゆく。「The Recording」が、バラバラの部品を、組み立てたり、バラしたり、また組み立て直したりすることによって出来ているとすると、「聞こえない木下さん…」は、はじめは「一つのもの」だと思っていたものが、だんだん形がゆがみ、分裂してしまうというところまでゆく、という感じなのだと思った。
(追記。あ、とはいえ、「字幕」がとても重要な役割を担っているので、必ずしもメディア的な操作のない「一つの状況」とは言えないのか……。)
●ぼくが観た限りでは、百瀬文の作品のほとんどが双対性を問題にしており、その双対的関係における非対称性が注目され、その上で、何かしらの形で非対称性に分析的な揺らぎが与えられる、ように思われる。