⚫︎『男性の好きなスポーツ』(ハワード・ホークス)をDVDで。ツタヤディスカスで借りた。実はこの映画、テレビで放送された短縮・吹き替え版しか観たことがなくて、オリジナルをはじめて観た。
バリバリに全盛期の『赤ちゃん教育』(1938年)を、晩年(1964年)にセルフリメイクした作品。その関係は、小津における、バリバリ全盛期の『晩春』(1949年)と、その晩年セルフリメイク『秋日和』(1960年)との関係に近いように思う。全盛期の神がかったキレキレな感じや、精密機械が作動するような非人間的とも言える正確な進行に比べると明らかに弛緩しているのだが、その分、全盛期の作品にはない、あまりきっちりとはしないゆったりとした余裕と、不思議な(「贅肉的な」と言ってもいいかも知れない)豊かさがある。『ハタリ ! 』などもそうだが、晩年のホークスの(おそらく)緩んだことからくる独特の幸福感がある。
むちゃくちゃ図式的に言えば、男性が「奇妙な女性」と絡む(絡まれる)ことで、社会の象徴秩序や男性的な沽券(「沽券に関わる」の沽券)を撹乱・破壊されるのだが、それによって、自ら縛られていた男性性からも解放されるというような話で(虚仮にされれば虚仮にされるほど自由になる)、ここでははっきりと、男性的な沽券=詐欺となっていて、ロック・ハドソンはポーラ・プレンティスのおかげで、詐欺師であることから解放される。「映画」はまさに、解放のための / 解放されたプレイグラウンドとなる。
(このような、『赤ちゃん教育』や『男性の好きなスポーツ』における男女の役割を逆転させたのが、『赤ちゃん教育』と同じ1938年に作られたジョージ・キューカー『素晴らしき休日』ではないかと思う。)
ただし、「奇妙な女性」が男性に絡んでくるのは(女性がかまってくれるのは)、男性に性的な魅力があるからで、「自分には性的魅力がある」という男性の自信は揺らがない。なんなら、男性的な沽券を手放すのとトレードオフのようにして、男性は自分の性的魅力への自信を獲得(あるいは再確認)する、みたいなところがある。
『赤ちゃん教育』のケイリー・グラントは、どんなに間抜けな様を演じても一定の洗練を維持している感じがあるが、ロック・ハドソンが間抜けな様を演じると、まさにただの間抜けな大男に見えて、それがこの映画の愛らしさにつながっていると思った。