●深夜アニメ。
●『ガッチャマンクラウズ インサイト』、第三話。作品としては、今のところまでは、考え抜かれたすばらしい出来だと思うけど、これを観ることは、現実を見ることと同じくらい気が重い。まさに鬱々としてくる。リアルすぎて「面白い」って言えない。
(登場人物全員が対立し合ってもおかしくない不穏さに満ちていて……)
●『がっこうぐらし』、第二話。オープニングの映像がすごいことになっていた。
●『長門有希ちゃんの消失』、最終話。なんと言ったらいいのか、論理的に納得できる終わり方ではあった。
●『下ネタという概念が存在しない退屈な世界』、第三話。この作品は思っていたよりは面白いのだけど、タイトルが良くないと思う。この作品世界で禁じられているのは「下ネタ」でなく、性的な事柄に関心を持つ(性的な知識をもつ)ことであり、自分の性欲を認めること、あるいはそれらの事柄を積極的に話題にし、実践すること、なのではないか。しかし実際の「下ネタ」というのはほぼ、(1)ホモソーシャルな関係性の確認、強化か、(2)セクハラ、にしか使われないものだと思う。
ここでは、性的な事柄に関する関心を話題にすること、を、とりあえず「下ネタ」ということにしておく。だとすると「下ネタ」には二種類あると言える。(1)直接的に性的な事柄についての話、(2)それ自体としては性的事柄ではないことから、性的な「意味」を読み出すこと。例えば、「穴」と「棒」は、それ自体ではまったく性的なものではないが、組み合わせると比喩として分かり易く性的である。エロとは比喩であるとも言える。しかし、それを性的だと感じるためには前提となる知識(男性器による女性器への挿入という知識)が必要となる。知識のない者が、とくに意味もなく、左手の親指と人差し指で輪をつくり、そこへ右手の人差し指を挿入したとする。それを見た知識をもつ者は、そこに性的な意味を読み取る。そして行為した者に対し下品な笑いを浮かべたとする。その時、知らないままで行為した者は、知らないうちにそこになにか卑猥な意味が「読み取られた」ことを下品な笑いから感じ、自分が「侮辱された」という感じをもつのではないか。知っている者が、知らない者から、ある「性的な享楽」をかすめ取る。知らない者は、自分から何がかすめとられたか分からないまま、侮辱感だけを与えられる。
あるいは物語中でテロリスト「雪原の青」は、健康診断時に採取された男子生徒の尿のすべてにタンパク質を混入するというテロ行為をする。この行為は、タンパク質=精液という比喩が成立しなければ、特に性的なものではない。さらに、性的な知識を欠いている一般生徒には、この行為の意味がまるで分からない。ならば、「雪原の青」がただ享楽(自己満足)しているだけで、テロとしては意味のない行為なのではないか。だがここで、「雪原の青」がしたのだから、そこに何か卑猥な意味が隠されているはずだという推測を生徒たちに持たせると言う効果がある。そこに謎が生じ、謎による探求への誘惑によって、禁忌を破る方向へと生徒たちを誘導しようという魂胆だろう。謎が生み出す、よくわからないことのもやもやこそが卑猥の元である、と。
(だが実際には、直接的に性的なものと、比喩的に性的なものははっきりと分けられない。下着フェチや靴フェチの人にとって、下着や靴は性的な対象の比喩(代替物)ではなく、性的な対象そのものだろう。)
ここまで書いたことをまとめると、(1)エロとは比喩であるということと、(2)知っている者が知らない物から享楽をかすめ取る、つまりエロと知が不可分であり、知の非対称性が性的な非対称性にもなる、ということ。
ここで強調すべきなのは、この作品の設定「卑猥なものが権力によって抑圧された世界」とは、現実にあり得るかもしれない権力による表現規制を表わすと言うような類のものではないということだ。そうではなく、知っている者としての観客が、知らない物としての登場人物から、性的な享楽をかすめ取るための、観客の欲望にとって都合の良いようにつくられた設定だと考えるべきだろう。
しかしこの作品の面白いところは、そこで終っていないところだろう。それは、この作品中で最も多くの享楽をかすめ取られる存在であるはずの、最強の「知らない者」である、生徒会長のアンナ・錦ノ宮こそが、実はもっとも強く、多く、享楽している者なのではないかという気配を漂わせているところにある。彼女は、無知であることによって性的に搾取される者ではなく、無知であるという戦略(性癖)によって、誰よりもよく享楽しているのではないか、と。彼女は、厳しい規制のある世界のなかにあって、無知であるという言い訳(無知であるかのように振る舞うこと)によって、パイズリ+フェラ画像を堂々と生徒会室に持ち込み、平然と「おまんこ」と口にし、偶然という言い訳で主人公の狸吉とキスをして恍惚となる。無知であるという戦略によって、他者も自分自身をも騙し、罪悪感を見事にスルーして、誰よりも欲望を存分に解放している逆説的な人物と言えるのではないか。
(知っている者であり、かつ、知らない者にあこがれる者である主人公の狸吉こそが、最も少ない享楽しか得られていないのかもしれない。)