●『夜戦と永遠--フーコーラカンルジャンドル』(佐々木中)の、第一部のラカンのところだけ読んだ。最初の方は、とてもざっくりとして明解なラカンの「おさらい」という感じで、勉強になるなあ、というくらいの気持ちだったのだが、その明解な「おさらい」が積み重ねられてゆくうちに、いつの間にか、予想外のところまで連れて行かれる。文章は、ぶっちゃけこういうことでしょう、という風通しの良いざっくり感と、何かに追い立てられるような熱さとが同居していて、学者っぽくない。「批判されない(突っ込まれない)」ためだけにはり巡らされるような過度な防衛(アカデミックな文章はしばしばこれにうんざりさせられる)がないので、とても気持ちのよい感じ。
ぼくのような半端なラカンの読者は、(ファルスの享楽に対する)「対象aの剰余享楽」こそが「女性の享楽」なのかな、というイージーなイメージをもつのだが(実際にそうであるかのように書いているラカン派の論者もいるし)、ここでは、剰余享楽(換喩-クローズアップ)と大他者の享楽-女性の享楽(「すべてではない」)とがまったくの別物であることが、理論的に明解に示されている(実際、実例を挙げようとすると剰余享楽と女性の享楽は似た表情を持つ印象になり、だからこそ、理論的に峻別される必要がある)。そしてそのことこそが、ラカンを「いわゆるラカン理論」の隘路から解放し、《天窓》を開けるように別の道へと繋がる通路を開く。ぼくの知る限りでは、今まで、ラカンの名のもとに(つまり精神分析理論との直接的な繋がりのなかで)、このような事柄(例えば、何かを創出する、懐妊すること)が説得力をもって語られたのを読んだことはなかった。精神分析的な語彙を使うかぎり、このような領域にはシニカルなやり方でしか接近できないと思い込んでいた。三章から四章へと移行したとたんにがらっと光景がかわるかのようなこの展開には、驚き、興奮し、昂揚させられる。そして、天窓が開かれたと同時に、ラカンはあっさりと捨て去られるかのようでもある(ラカンに対して一定の愛着のあるぼくには、それはちょっと矮小化なんじゃないだろうかという気持ちもチラッと芽生えもするのだが、しかし、そんなことよりも、この議論への「驚き」の方がずっと重要なことだ)。いや、捨て去られるという言い方は正しくなくて、ここまでざっくりと明解にすれば、ラカンの言っていることを、妙にありがたがってこねくり回すことも、不必要に反発することもなく、これから展開される議論に必要な「前提」として受け入れられるでしょう、ということだろう。ラカンがひらいた「前提」を押さえておかない限り、「抵抗」や「革命」は、たんなるうつくしいスローガン(思考停止の場所)になってしまう、と(例えば、ドゥルーズが「男であることの恥ずかしさによって書く」と書く時、それはあまりにうつくしい哲学的比喩として作用してしまうように感じられるのだが、それがラカン(が崩壊する臨界点)としての「大他者の享楽-女の享楽」に触れることで、そこに「ある実質」が充填されるように思う)。
おそらく今後、この天窓を開かれた「前提」が、社会や歴史(ルジャンドル)、権力や政治(フーコー)の問題へと繋がり、発展してゆくのだと思われるが、その行き先がまったく予想できなくて、楽しみでもあり、不安でもある。「序」にも書かれていたけど、普通に考えるなら、ラカンフーコーとは相容れないように思われるからだ。というか、苦手な分野であり、まず、ぼくが議論についてゆけるのかが不安なわけなのだが。
●ただ、気になるところがないわけではない。例えば、大他者の享楽=女性の享楽の例として17世紀の神秘主義を挙げる著者は、それについですぐさま、ヨガなどの修行=身体技法について《このような身体技法や薬物に頼るものは、神秘主義ではない。それはただの剰余享楽にすぎない》と切って捨てる。この本の論理的な構成では、身体技法が剰余享楽であるというのは必然的な成り行きであろう。しかしここで著者は、薬物(による神秘体験)と、具体的な体系や歴史をもつ身体技法とを、あまりに粗雑に同一視しすぎてはいないだろうか。勿論、この強い否定によって著者が「何」を警戒し、「何」を否定したいのかは充分に理解できる(カルトと神秘主義とを峻別したいのだろう、中沢新一みたいな人への批判とか、あるいは、麻原彰晃は優秀なヨガの教師だったわけだし)。とはいえ、詩=隠喩の機能が、一瞬の閃光によって一つの全体性を出現させようという指向性をもち、それ自体としてはファルスの享楽に属するにもかかわらず、それが女性の享楽(「すべてではない」)へと開かれる(滲み出る)困難な可能性をもつのと同様に、日々行われる具体的な身体技法の修練が、それ自体としては剰余享楽=換喩であるとしても、そこから女性の享楽へと開かれる可能性がまったくないと言い切ってしまってよいのだろうか、と疑問に思う。というか、身体技法と「書くこと」は、そんなに違うことなのだろうか。(実際に「ヨガ」が、享楽のレギュレータを超出し得る「それ以上」のものであるのかどうかは、ヨガを知らないので分からないけど、その可能性をそんなに簡単に否定できるのだろうか。)
とはいえ、筆者のこの身体技法への軽視の理由は分からないでもない。筆者にとって、この本で問題となっているのは「世界=身体を変える(新たに創出-懐妊する)」ということの可能性について書くことであり、そして、人間にとって世界は、言葉とイメージによって織り上げられたテキストであるということなのだから、フィジカルな次元での身体技法はそのような世界=身体=テキストには含まれず、つまり身体技法によっては決して「世界を変える」ことは出来ない、とされているからだ。世界=身体を変えることの可能性に関わらない身体=感覚は、結局のところ現状肯定しか生まず、それは常に既に、享楽のレギュレータによって微温的に調整されたものでしかない、と(このことは、「死」について書かれた五章で、人の死の二つの次元--主体としての死と、動物的な匿名的身体としての死--のうち、前者だけが「死」として扱われていることからも明らかだろう)。以上のことは、この本の理論的な構成の次元では、完全に納得出来る。
しかし、だからといって本当に、フィジカル-原初的な次元での身体を「ない」と言ってしまってよいのだろうか。「そこ」を問題としないで、我々が生きてゆくことが可能なのだろうか。フィジカルな次元での身体技法は本当に「世界を変える」ことが出来ないと言い切れるのか。それは常に二次的な、日常的で瑣末な、それぞれが趣味の次元で適当に処理すればよい問題なのだろうか。これらの点についての疑問(保留)を決して手放さないままで、つづきを読んでゆきたいと思う。