2021-06-16

マルクス・ガブリエルが「世界は存在しない」と言うときの「存在しない」と、ラカンが「女なるものは存在しない」と言うときの「存在しない」は同じ意味ではないかと思った。マルクス・ガブリエルは、存在するすべてのものを包括し得るような普遍的な「世界」という概念は存在しない、と言っているのだし、ラカンは、存在し得る女性のすべてを包括し得るような普遍的な「女なるもの」というカテゴリーは存在しない、と言っているのだから。「新しい唯物論」と「女性の享楽」は、同じ形のロジックではないか、と。

以下は、『女は不死である』(立木康介)より引用。

《この論理式(¬∃x ¬Φx)はフロイト的「原父」の否定(より正確には、原父の機能の否定)でもあることを見逃してはならない。「すべての女たちを独占する男」など女たちは興味がないし、そもそも「すべての女たちを独占する」ことなどいかにしても不可能なのだ。ラカン曰く、「〔原父が〕すべての女たちを享受するという神話が指し示すのは、すべての女など存在しないということだ。女の普遍はないのである」。》

《(…)女たちはけっしてファルスのもとにひとつの普遍的な集合を形成しない。だから、女たちを定冠詞つきで(…)名指すことはできない。女はつねに不定冠詞を添え、「ひとりの女(…)」もしくは「(不定冠詞の)女たち(…)」と書くことしかできないのである。だが、重要なのは、量化子∀の否定である「すべてならず(…)」が、ここでは単一の主体の「全ならず(…)」を導くことだ(¬∀xΦx)。このことは、じつは何よりも「享楽」にかかわる。ひとりの女は全体ではない、というのはつまり、ファルス享楽がひとりの女を満たすことがあるとしても、その女全体を満たすには至らない、ファルス享楽がひとりの女全体を満たすことはできない、ということだ。いいかえれば、ひとりの女にはつねに、ファルス享楽が満たしきれない余白の部分が残る。いや、「部分」や「残る」は、一般になんらかの「全体」の存在を前提にした表現だから、ふさわしくない。ひとりの女には、ファルス享楽が満タンになってもなお、それを越え出る別の享楽の入り込む余地が---「全体」が存在しないがゆえに、権利上は無限に、つまりいくらでも---見出される、と言わねばならない。》

ラカンは女の享楽に「上乗せ享楽(…)」という名を与える。(…)去勢=「(原始的)享楽の断念」によって条件づけられる「ファルス享楽」は、ひとつの根源的な「欠如」を前提し、それにいわば全面的に依存している。去勢のないところにファルス享楽はない、というわけだ。これにたいして、上乗せ享楽はあくまで「追加」であり、それを可能にする「全ならず」は、何かを「全体」とみなす必要(もしくは必然性)がないということであって、全体から何らかの部分が「差し引かれた」、すなわち「欠けている」という意味ではないのである。》

(ラカンの「性別化の表」の解釈---特に「¬∃x ¬Φx」について---が、この本の立木康介と、「精神分析にとって女とは何か」の松本卓也とでは、かなり違っているのだな。立木康介はこの式を、《関数Φxに否と言うxが存在しない》と読み、《ファルス関数を「基礎づける」とされる「∃x」(ファルス関数に否というx)が否定されるのだから、ファルス関数はいわば浮遊状態に陥り、一般に「規範」や「基準」と呼ばれるものを提供する力を根こそぎ失うに違いない》と解釈する。ここで「ファルス関数に否と言うx」とは、フロイトの「原父」だ。つまり、ファルス関数に否と言うもの---唯一の例外---こそが、ファルス関数を支えているのだが、その存在が否とされることで根拠が揺らぐ。だが、松本卓也は、《ファルス関数に従わない(去勢されていない)女性がいるわけではない》と読み、《女性であるからといって去勢を免れることはできず、女性もファルス関数に従わないわけではない》と意味づけている。そのままさらっと読んでいる感じ。女性も普通にファルス関数に従っているのだが(「従っている」ではなく「従わないわけではない」なのがミソだが)、それに加えて、追加的な「他の享楽(上乗せ享楽)」があるとする、話の基本的な筋道はどちらも同じなのだが、式に込められる意味が違っている。)

松本卓也ラカン派における女性論」(偽日記@はてな)

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/2021/01/01/000000_1