●「心の哲学」関連の本を読んでいると、ラカンが懐かしくなってくる。
心の哲学で問題とされる「心的状態」とは主に、「信念(何かが成立していると考えたり感じたりしている状態)」、「欲求(何かが成立することを欲している状態)」、「感情(何かに喜んだり悲しんだりしている状態)」、「知覚・感覚(何かを見たり聞いたり味わったり、痛みや痒みなどを感じている状態)」であり、そしてそれらが「志向性を持つ(何か=対象に向かう)」ということだ。そこには、例えば精神分析的な意味での「欲望」のようなものが入る場所はないように思われる。
本を読みながら、展開されている論旨とは関係なく、「享楽」というのはいったいどういうクオリアなのだろうか、と考えたりする。あるいは、「ララング」は何かしらのクオリアをもつと考えられるが、おそらく主体はそのクオリアを意識しているわけではないのではないか、と思ったりする。しかし、クオリアが感覚される質であるとすれば、意識されていない(わたしの意識に直接的に把握されていない)クオリアが存在する、などと言うことができるのか。
というか、精神分析はそもそも、「わたしの意識に直接的に把握されていないクオリアが存在する」ということが前提になっている。わたしは、自分が知らないうちに、何かの感覚を享楽している。いや、それは違うのか。その感覚をわたしは直接的に受け取っているが、そのことをわたしの意識は知らない、ということか。直接性は成立しているが、意識が分離し、しかし分裂するのではなく一方が潜在化する。
心の哲学においても、「信念」と「欲求」の食い違いということは検討されているようだ。わたしの「欲求」が何かを欲していることを、わたしの「信念」は知らない。あるいは、わたしは「xを欲している」という間違った「信念」を抱いている(実はyこそを欲している)、という事態はあり得る、と。しかし、わたしの潜在的感覚αは「xという感覚を享楽している」が、わたしの顕在的感覚βは、それを感じていない、となると、知覚・感覚ということの定義を変える必要が出てくる。もしかすると、後者の「顕在的感覚β」は「信念」と言うべきなのかもしれないが、潜在的感覚(それを感じているとは意識されない感覚)は語義矛盾であり、それを「心的な状態」と言っていいのか、という問題は残る。
(というか、仮に、わたしの潜在的感覚αは「xという感覚を享楽している」が、わたしの顕在的感覚βはそれを感じていないという状態が成立するとして、その時に何故、わたし1とわたし2とが分離して「二つの心」にならずに、「一人のわたし」として「わたしの心」がその矛盾する多平面を貫いて抱えることになるのか、というのが謎なのではないか。精神分析的な「症候」とは、矛盾する多平面の「矛盾の表れ」でもあり、矛盾を吸収するための「方便」でもあるようなものだろう。)
●なぜ「心」などというものが問題になるのかと言えば、それは、「わたし」はこんなにまとまりなく、辻褄も合わないものの集合であるのに、何故そんな「わたし」が一つのものとしてまとまっていて、つまり一人しかいなくて取り換えが効かず、他人と交代したり、あるいは何人かで部分を交換してシャッフルしたり、「わたし」を持ち寄ってシェアするということが出来ないのか、という謎があるからで、その謎の根拠の一つとして様々な矛盾を吸収する「心」というものがあり、そしてその謎は結局、「わたし」はどうして「わたしの死」が怖い(つまり、「わたし」は、わたしをシャッフルしたりシェアしたりしたいのだが、同時にそれがとても怖い)のか、という謎に繋がるからだと思う。
ラカンが、人は「変われば変わるほど変わらない」と言ったのは、その内容や部分がどんなに変わったとしても、わたしが「わたし」となった最初の「一」という刻印だけは変わらず、つまり取り換えが効かず、逃れられず、死ぬまでついてまわるという意味なのかもしれない。