2022/08/09

●『世界は時間でできている』(平井靖史)、序章と第一章を読んだ。(あくまでぼんやり知識としてなんとなく)聞きかじっているベルクソンの思想のピースが、ほぼ知っている通りの形ででてくるのだが、しかしそれらが一つ一つキレキレに磨き上げられていて、現在に直接刺さってくるような形に組み上げられている感じ。これとこれとをそう組み合わせると、そういうことになるの、えーっ、みたいな感じ。まさに、「解像度を上げる」ことと「適切に粗視化すること」が同時に行われている感じ。以下、第一章「時間で解くクオリアの謎」から引用、メモ。

●前提

《心身問題は「空間の観点からではなく、時間の観点から(…)立てられなければならない。》

《(…)体験は意識される流れのことだから、この拘束は、意識が成立するための時間スケール的制約になっている。(…)意識は、特定の時間的条件を備えたシステムを必要とし、環境との相互作用を通じてローカルに---空間的だけでなく時間的にも---実現されているのである。ベルクソンは、こうした特定の時間スケールという制約を持つことが、意識の成立条件に関係しているのではないかと踏んでいるわけである。》

《(…)スケールが変わるということは、決して同じことの反復ではない。(…)ハエを人間サイズにすれば廃熱問題で生きてはいけないし、人間をガンダムサイズにすれば関節が重荷に耐えられずろくに歩くこともできない。そのサイズではできないことがあり、そのサイズでしかできないことがある。》

ベルクソンは、物質と生命を一貫して「システム」として扱う。システムというのは、他のものと相互作用する際のまとまりとして扱われるというほどの意味である(…)。「物質システム」は、「中心を持たず」、「各要素がそれ自身に関連づけられた」相互作用の全体として定義されている。難しそうに聞こえるが、ここではこの言葉が指すものとして、「相互作用でできた宇宙全体」のことを考えておけば良い。(…)》

《空間の観点から見れば、物質はこの宇宙に等しい、つまり最大の広がりを占めている。それに対し、時間の観点から見れば、逆に最小の幅を定めるものになる。もちろん、物質しかない段階では比べるものがないので最小も何もないが、後から出てくる生物システムと比較しての話である。進化を通じてシステムが徐々に時間的に拡張されていく、その起点となる物質は相互作用の最小の時間スケールを定義するものとみなされる。》

《(…)ある特定のシステムが内在的に弁別し得る最小時間単位を「瞬間(moment)」と定義する。「内在的に弁別する」というのは、外因の時間変動に対してどれだけ鋭敏に追随できるかということで考えてほしい。一般に、瞬間のサイズはシステムごとに異なる。「瞬間」はこの意味で幅をもつ。そして文字通り幅ゼロの、つまり理念的にしか存在しない「瞬時(instant)」と対比される。》

《そして本書では、「流れ」というタームを、そのシステムにとっての複数「瞬間」にまたがる「幅」を要するものとして用いている。その意味で、一瞬間だけでできている物質は、流れようがない(…)。》

クオリア問題とは何か(何ではないか)

《(…)①機能面ではなく現象面の問いだという点である。そもそもクオリアの問いは、どうして私たちが赤と青を区別できるか》と立てるだけではうまく伝わらない場合がある。(…)クオリア問題において「説明されるべき違い」とは、(a)「六三〇nmと四六〇nmの電磁波」の違いではない。それは単に物理学の問題だ。それはまた、(b)「六三〇nmと四六〇nmの電磁波の違いを識別できる状態と識別できない状態」の違いでもない。これは単に観測機能の問題でしかない。そのメカニズムならとっくに分かっている(…)。そうではなく、(c)「六三〇nmと四六〇nmの電磁波の違いを単に識別できる状態と、その違いを体験の質の違いとして内的に識別できる状態」の違いである。》

《②相関・決定の問いではなく産出の問いである。》

《脳がある状態Aをとると、意識はαという状態になり、脳がBになるとそれに応じて意識もβになる。脳がCの場合には意識は消えるとしよう。そうすると、「脳が意識を生み出している」ことになるだろうか。答えは、「ならない」である。決定は、相関の一種でしかないからだ。それは、「意識ゼロ」の状態を含む相関でも同じである。》

《③「無からの創造」ではなく「素材の加工」という意味における「産出」である。》

《(…)二つの意味を区別しよう(…)。「作る①」は、「無から何かを生み出す」という正真正銘の超常現象の意味で、神でもなければ成し遂げようがない。「作る②」は、「ありもの」を加工・整形・編集するという意味だ。》

《そしてもし、第二の意味で脳がクオリアを「産み出す・作る」というなら、クオリアというものの「素材」を示さなければならない。(…)クオリアは分子でできていないし、質量も持っていない。(…)だが、それができないのであれば、「脳が産み出す」は実質、魔法の方の意味(①)になってしまう(…)。》

《だから、何かカテゴリーの違うところに「素材」を探し求める態度変更の必要がある。(…)素材を見つけたとしても当然そのカテゴリーが違ってくる以上、求められているのは通常の物理的因果的産出とは違う説明原理となるはずだ。》

●感覚と運動の間の非決定性ギャップと時間的<拡張>

ベルクソンは生物のことを特に「感覚-運動システム(…)」と呼ぶ。》

《環境から入ってきてそして環境に出ていくまでの感覚-運動の一行程分を、途切れないひとつながりのプロセス(「ひとつの緊密な全体(…)」として捉えるのである。繰り返されるそのプロセスが示す相対的に安定した時空のまとまりを、感覚-運動システムと考えるのだ。さらに、より重要なことは、このシステムは時間的に、一つの瞬間をはみ出して一定の幅を占めている(…)。》

ベルクソンはこう述べる。単純な生物においては作用に対する反作用は「ほぼ待ったなし」(…)であるが、意識的な遠隔的知覚(視聴覚)が登場するのは、生物がより大きな時間的スケールを制御可能になり、反応の「期限を延期」し、刺激が「もはや必然的な反作用へと続いて引き延ばされなくなる」(…)まさにその時である、と。情感(affection` 身体内部についての体性感覚のこと)もまた、「その生物種に脅威となる一般的な危機を感覚によって知らせ、危機を逃れるために行うべきあれこれの用心についてはそれを種の個体それぞれに委ねる、そのとき」(…)に現れる。》

《この、システムがより大きな時間幅をもつようになるということを、ベルクソン「自分がこの語に与える特別な意味で記憶力」(…)と名付けている。同じものを、私はよりわかりやすさを重視して時間的<拡張>と呼んでいる。簡単に定義を与えておけば、〈その働きがなければ過去として手放されていたはずの要素を保持し、現在のうちに取り込むことで、システムに直接利用可能な時間的要素を拡張する〉、そういう働きのことである。》

クオリア発生についての「凝縮説」

《例えば人間の聴覚は二ミリ秒の時間分解能(どれだけ短く時間を捉えられるかの能力)を持っており、ベルクソンは、エクスナーによって求められた二ミリ秒という値を実際に利用している(…)。視覚ではこれが二〇ミリ秒程度となる(…)。つまり毎秒五〇コマの識別が限界ということだ。ハエの知覚は毎秒一五〇コマなので、時間分解能はハエの方が高い。》

《(…)赤い光が私たちにとっての瞬間、つまり二〇ミリ秒だけ瞬いたとしよう。それは私にとっては、チラリと垣間見えたたった一瞬のクオリアでしかなく、そこに継起的な現象が起こっているようには感じられない。現実には、その期間に光は約八兆回もの振動を順次行っているというのに、だ。私の身体は、ミクロな現象に対して時間的に鈍感で、そこにある膨大な数の事件を潰してしまう。さて、それは単なる損失だろうか。ベルクソンは、そこで、他ならぬ赤という質が、その代償として得られていることに着目する。》

《感覚クオリアが生じるのは、このスケールの隔たりによる一種の時間的粗視化だという仮説、これが凝縮説である。》

《(…)物質としての光は、ほんのわずかでも波長の異なる電磁波と交われば、その違いに対応して干渉し変化する。つまり、波自体が、他と相互作用する際に、人間の視覚がとうてい及ばぬ極めてミクロな時間的違いにも敏感に反応するということである。》

《他方で、私たちの視覚は二〇ミリ秒を最小の時間単位としている。そしてこちらも、私たちの身体自身にとってこれ以上分別できないという意味で、システム内在的に定義されており、この単位は実在的である(観察者が外から恣意的に割り当てた計測単位ではない、という意味で)。》

《そうしてみると、私たちが物を見るという経験は、互いに途方もなく隔たった時間スケールが一つの同じ相互作用に参入するという事態であることが見えてくる。逆に振り返ってみれば、物質においては、相互作用を通じてこうした時間スケールの移行が跨がれることがない。そこにクオリアはない。》

《このスケールギャップは、新しい「素材」の確保に相当する。というのも、光自身の現在ははるかに短く準瞬間的であるというのに、生物が光を見るということは、本来なら現在をはみ出して存在しなくなっていたはずの諸瞬間が、それと相互作用する感覚-運動システム側の瞬間の相対的な大きさゆえに、保持されることになるからである。》

《(…)時間スケールギャップのある状況下では、現実にはより複雑なミクロなイベントが生じているにもかかわらず、その影響を受ける上位スケール側の量的な識別可能性が不足する。今の例でいえば、階層0のもつ量を、階層1の量的な識別力は表現しきれない。もちろん、そこで考えられる一つの可能性は、下位の一定量の情報が上位のスケールでは単純に失われてしまうということである。だが、もう一つは、量でない識別次元が新しく開拓され、量次元で識別できない不足分がそちらに翻訳されることで表現力の補填・変形が行われるということである。》

《(…)凝縮とは、入力側(物質)が提供する量的な識別可能性の全体を、二つの、つまり量的および質的な識別可能性へと分解する変換である、と。量的多様体は外から観察、計測可能であるが、質的多様体は非観察領域に展開される。後者の諸要素は量的に識別(計測)できないが、別の仕方で識別は維持される。》

《問題にしているのは宇宙に初めて質が成立した場面であって、それはまったくもって当たり前の事態ではない。あくまで仮説的なアイデアに留まるが、少なくとも、この「多様体の変形拡張モデル」へのシフトによって、伝統的な量と質についての「二項対立モデル」が引き起こしてきたアポリア(解決しがたい困難)を大幅に緩和できるとベルクソンは考えていた。》