2022/08/08

●作品を観る、あるいは分析する、批評するときに目指す方向として、おおざっぱにいって二つの方向性がある。「解像度を上げる」という方向と「適切に粗視化する」という方向。

「粗視化」というのは統計的な処理によって解像度を下げることで---たとえば「熱」は分子の状態を粗視化することではじめてあらわれる---物理学などから借りた比喩だ。

「熱」の解像度を上げると分子の振動になり、分子の振動を粗視化すると「熱」になる。作業としては逆向きだが同等の操作であり、どちらが正しい、どちらがより重要ということはない。

だから、解像度を上げることこそが「作品そのもの(実在そのもの)」に迫っていくことだという考えは違う。とはいえ、さらに徹底的に解像度を上げていくことで別の次元があらわれる---量子力学が生まれる、プランク時間が現れる、とか---ということはあるので、解像度を上げることそれ自体の独自の意味がある。

だがその時、「熱」という「価値」、あるいは「感覚(形・質)」は失われてしまうので、適切な粗視化にも、それ自体としての別の独自の意味がある。

正確な熱(温度)を抽出するには、粗視化は適切に行われなければならない。だから、粗視化は粗い分析や、分かりやすい紋切り型を作品に押し付けているだけのテンプレ批評のようなものとは違う。

ここで、この話を還元主義(=解像度を上げる)と全体主義、あるいは関係主義(=適切な粗視化)と読み替えるのは違う。「解像度を上げる」というのが還元主義であるというのはいいと思う。だが、適切な粗視化ということに対応するのは、関係主義であるというよりオブジェクト指向存在論に近いと思う。

ハーマンの言う、形式主義としてのオブジェクト指向というのが、「適切な粗視化」としての作品分析に近いのだと、ぼくは考える。

唯物論は、目に見えるいかなる状況も、それを転覆させ驚きをもたらすような深い余剰を含み込んでいるのだということを洞察しているのであって、〔たしかに〕この点において賞賛に値する。しかし、この余剰はけっして形なきものではない。それはつねに形式を有している。そして、どんな水準の形式も、他の水準の形式より実在的であるとは考えられない。まさに以上の点から、わたしたちは唯物論に対してフォーマリズムを擁護しなければならないのだ。それは、(たいていのフォーマリストが考えるように)あたえられた形式の足元にいかなる過剰も存在しないからではなく、過剰それ自体がつねに形式を有しているからだ。》

上の引用は、グレアム・ハーマン「唯物論では解決にならない」(「現代思想」2019年1月号)より。ここで言われる「《過剰それ自体が》有している形式」こそが、適切な粗視化によってはじめて取り出される「熱」に相当するだろう。