2022/03/19

●『自然なきエコロジー』(ティモシー・モートン)の序論を読んだ。これはかなり強いロマン主義批判なのだと言い(「自然」という語はロマン主義的なものだ)、しかし、我々は未だその内にあり、さし当たってロマン主義的な方法しか持っていないとも言う。そして、美的なものへの批判であると言い、しかし、さし当たって美的なものを検討することに意味があるとも言う。そのように、外に出たかと思うと内に入り、内に入ったかと思うと外に出るという風に、記述がぐるぐる回っている。分かりにくいと言えば分かりにくいが、そのように書かれるしかないのだろう。以下、引用。

エコロジーのために、自然=超自然という(ロマン主義的)イデオロギーを解体する必要がある

《自然と呼ばれるものを玉座に据えて遠くから眺めることは、家父長制が女性像に対してするのと同じことを、環境を相手にすることである。それは、サディスティックな崇拝という、逆説的な行為である。シモーヌ・ド・ボーヴォワールは、現実に存在している女性が物神的な対象に変えられてしまうことを、最初に理論化した一人である。『自然なきエコロジー』は、いかにして自然が超越論的な原則になってしまったのかを仔細に検討する。(…)シェークスピアソネットが、ジェンダーに「かんする」もののようにははっきりと思われなくても、今日において私たちはそれがジェンダーとどう関連することになるかを問いたいと思っている。(同様に)いかなるテキストについてであれ、「これは環境についてなにを述べているのか」と問うときが来るはずである。》

《本当にエコロジカルな政治と倫理と哲学と芸術を阻む観念の一つが、自然の観念そのものである。》

《(…)「自然」は、象徴的な言語の中で少なくとも三つの場所を占めている。第一に、自然は多くの他の概念と置き換え可能な単なる空虚の代用語である。第二に、自然には法則の力があり、それを参照することで逸脱を測定することが可能になる、規範性がある。第三に、「自然」はパンドラの箱であり、バラバラの幻想的な対象の潜在的に無限の系列を包み込む言葉である。》

《自然とネイションはきわめて密接に結びついている。私は、自然が必ずしも社会の外へと私たちを連れ出すのではなく実際はナショナリストの享楽の根底を形成するということを、エコクリティークがいかにして検討するかを示す。じつは中世においては悪と同義であった自然が、ロマン主義時代には社会的な善の基盤として考えられていた。》

《汚染物質から巻き貝にいたるありとあらゆる存在者は、私たちが、科学的、政治的、芸術的な観点から関心を持つことを求めている。そのことで「自然」という一枚岩の概念が破壊されることになっても、そうすることを求めている。》

《自然は超自然的なものになる。それは、ジョン・ガッタが自然と原生自然にかんするピューリタンの思想史を論じたときに明瞭になった過程である。(…)あるいは自然は解体され、むき出しの物質が残存することになり、スピノザのように徹底的な唯物論の哲学者におけるいくつかの重大な成果をともなう一連の思想だけが残されることになるだろう。私たちはここで、あいだになにかがあってほしいと思う。》

《(…)自然はそれが発明されて以来、自然と超自然という等式の両側に位置づけられてきた。『自然なきエコロジー』は、文学的な著作物が自然を呼び出そうとする方法を探求することで、自然をこの等式から外そうとする。(…しかし)たとえ主体と客体や内部と外部といった用語の「あいだの」中間点を確立できても、自然は誤つことなしになんらかの用語を排除し、内部と外部のあいだの差異を別のやりかたで再生産することになる。私たちが人間ならざる「他なるもの」の近くへと連れて行かれるまさにそのとき、自然は「私たち」と「彼ら」のあいだの心地よい距離を再設定する。》

《「自然」とは、私たちになんらかの態度をとるように求めてくる、中心点である。イデオロギーは、この魅惑的な対象に対して私たちがとる態度に根ざしている。対象を解体することで、私たちはイデオロギー的な固着を作動しないようにする。少なくとも、これが本書の目論見である。》

●美的なものは距離の産物であるが、もはやその「距離」が不可能になっている。ここでの「美的のもの」に対する態度の複雑さ…(とてもややこしい)。

《美的なものは距離の産物である。それは自然からの人間存在の距離であり、客体からの主体の距離であり、物体からの精神の距離である。それはむしろ、怪しいほどまでに反エコロジカルではないか。》

《(…しかし、その「距離」により)美的なものは、自然への非暴力的なかかわりをうながしていく。芸術は肯定的で積極的な性質の空間(エロス)というよりむしろ、否定的で消極的な性質の空間である。それは私たちに、たとえ一時的にではあっても、事物の破壊をやめさせる。》

《美的なものは、私たちが解放的でエコロジカルな芸術実践を生成させるという名目で遠ざけるべきものなのか、それとも私たちがそれを取り逃してしまったと考えているまさにそのときいっそう密やかな装いのもとでふたたび現れてくる生活の必然的な事実であるのか。いまだはっきりしない。美的なものと美学化のあいだには距離があると主張することは可能である。だがこれはどことなくロマン主義的である。それは「よい」ものと「悪い」ものを思い起こさせる。美的なものがよいものであるのはそれが客体化されたり商品に転化されてしまうのに抵抗するからだが、ただしそれがそうなのは、皮肉にも商品化の過程を内部化している場合に限られる。》

《「よい」美的なものがあるという考えは、知覚には本来的なよさが、つまりは美学化の過程によって捕獲されたり曲解されたりすることのないよさが存在するという考えにもとづいている。ある意味では、これは本当でなければならない。そうでないならば、いかなる者の美的な構築物にも亀裂を見出していくのはほとんど不可能である。王様が裸であるということを見抜く澄んだ目が存在しないことになる。エコクリティークは、この明瞭な状態に名を与えようとしないが、これが人を盲目にする別の種類の芸術宗教になることを恐れているからである。》

《仮想現実とエコロジカルな混乱は、私たちの普通の参照点かもしくはそれにかんする幻影を失わせる。(…)仮想現実においては、「距離」の概念を当てにするのが不可能になる。批判的であるための手がかりを手に入れることはできないが、幻覚的な非-存在の精神病的な水族館のなかへと解体されていくのを私たちは感じている。そのパニックは「メタ言語は存在しない」という信念---意味の体系の外部には、それにかんしてなにかを言うことの立脚点となるものが存在しない---と折り合いをつけていくことから一部生じている。さらに言うと、この信念は意味の体系が可能にし、維持する幻想のうちの一つである。仮想現実とエコロジカルな緊急事態は、私たちはそもそもこの立場を保持したことがないという厳しい真実を突きつける。スラヴォイ・ジジェクは、少なくとも仮想現実について考えるときにはこの真実がもつことになる、ためになる効果を指摘していた。私たちは今や、距離という安全網なしで事物を識別する方法を獲得しなくてはならなくなっている。》

●出たいなら入らなければ…(しかしこのような問題設定もまた、未だロマン主義的なものの範疇にある、と)。

破局は差し迫っているのか、あるいは私たちはすでに破局の「内に」いるのか。私たちは内にいるのかそれとも外にいるのかと心配することそのものが、私たちがすでにどれほどまでに内へと入ってしまったかを表す徴候になっている。つまり、内と外の区別そのものがこの思考方法によって蝕まれている。》

ロマン主義アイロニーの機能は、語り手がみずから語っていることから距離をおきつつも、それでもじつはその語りのなかでどれほどまでに徹底的に解体され、その一部になり、それと分離されなくなっているかを示す。本書が論じていくように、いくつかの決定的なあり方において私たちはいまだにロマン主義の時代にいるので、ロマン主義の詩が没入の概念といかにして取り組んでいたかを考えるのは、きわめて適切なことだと言える。》

《それがただの仮想現実の問題であるというだけならば、少なくとも私たちは生きたままでいることができるし、最悪の場合でも精神的に病みつつ生きていることができると想像できる。没入している世界もまた毒性であるとき---それがじつはスクリーンに映される現象のようなものの問題ではなく私たちの細胞に侵入してくる化学物質の問題であるとき、いっそう厄介になる。これはまったくの馬鹿話ではないし、知的遊戯でもない。仮想現実における失見当識(私たちは、メタ言語のない世界のなかへとどれほどまでに没入しているかわからなくなる)は、グローバルな温暖化における失見当識(そこでもまったく同じようにわからなくなるが、死と破壊がもれなくついてくる)と比べるならば別にたいしたことではない。すでに存在しつつあるエコロジカルな緊急事態が仮想現実についての不安に似ているのは---そのとき、私たちはその両方を区別して話すことのできない精神病的な病のスープに浸されていく---それがさらに私たち自身の死の可能性を含みこむ場合に限る。》

●そしてさらに、(ロマン主義敵な)「美的なもの」へ対する態度の複雑さ。

《恐ろしくも魅惑的なことへと没入していく美的なものの探求は、いかにして困惑を抜け出ていくかを問うことになる。私は、ソフトウェアや脳などの内容を論じるかわりに、形式の領域を探求していく。そうするのはなぜかというと、社会と政治の問題への純粋に美的な解放策が存在するし、存在してきたと考えるからでは断じてない。むしろ、手元にある問題にある美的なものを検証するということそのものが批判的な洞察を始めることをうながしてくれる、というだけのことである。(…)微妙なところでいうと、美的な次元をまったく忘れてしまうのは不可能であるかもしれず、その意味で私の方法は美的な解決の一種である。》

●非同一なものを恐れるな。

《エコクリティークの指針となるのは、「非同一なものを恐れるな」というスローガンである。フランクフルト学派の一員でありこの研究を導く光源の一つであるテオドール・アドルノの議論を採用するなら、思考する過程はその本質において非同一なものと出会うことである。そうでないならば、それは既成の板のうえですでに定まっている破片を操作することでしかないだろう。これもまた、ヘーゲルがいかにして弁証法的な思考をたんなる論理学から区別したかということの問題でもある。すくなくともAからAでないものへの運動がなければならない。いつであれ、思考はかならずやその劈頭をおのれではないものにぶつけている。思考がはっきりと定まったところへ行けるかどうかは運任せであるとはいえ、それは「どこかには行く」はずである。》