●『まあただよ』(黒澤明)には、師弟関係のユートピア状態のようなものが描かれている。一方が他方を搾取するというのではなく、理想的な相互依存のような状態が生まれている。映画を観ていて、このなかにいる人たちは、先生も生徒たちも(そして、あまりにも奥ゆかしすぎる先生の妻も)、確かにみんな幸福なのだろうと思える。ただ、仮にこのような状態が現実にあったとしても、自分がそのどこかの位置にいるということは考えにくいとも思った。これは、黒澤明にとっては幸福な夢なのだろうが、ぼくにとってはそうではないなあ、と。
これは批判ではない。ぼく自身の人格的な欠落だと思うのだが、教師という立場の人とよい関係が持てたことが一度もない(教師と険悪になるというのではなく、険悪にすらならない、薄い関係しか持てない)。権威に対する反発という感情がまったくないわけではないとしても、それが原因なのではなく、師弟関係が成立するための「転移」という機能があまり強くは働かないということだと思う(自閉症スペクトラム的な何か)。師弟関係が成立しないので、「師からの圧倒的抑圧=専門的なディシプリン」がなく、あらゆる事柄にかんして独学でありアマチュアであって、それが自分の限界だという自覚もある。
(軽い抑圧=ディシプリンとして、美大受験のためのデッサンがあるくらいか。)
(『まあだだよ』における「先生」は、決して抑圧しない先生なのだろうし、だからこそあの関係が成り立っているのだろう。そうであるとしても、ある人を師と仰ぎ、その人が師として仰がれることを受け入れる、という関係の内に入ることが---弟子の立場としても師匠の立場としても---居心地が悪くて難しい。それは、ある人を尊敬する、ということとは微妙に違っている。)
(師弟的関係を否定しているのではなく、ぼくには難しいからこそ、うらやましいと思う。)
もちろん、決定的に大きな影響を受けた先人は何人もいるが、それは基本的に「作品」や「テキスト」を介してのことだ。ぼくにとって師匠は常に「作品」であり、だからこそ「作品」というものがかけがえなく重要なのだ。