●「ワンダー×ワンダー」を観ていて、鍾乳洞というのは、何と人間の想像力(というか妄想)にかなった形をしているのだろうと思ってしまう。まるで、人間がこの世界に登場するはるか以前から、この世界そのものが、後に登場する人間の妄想を先取り的に予測して、それを人間が発見する日のために準備していたのではないか、というさらなる妄想すら浮かんでしまうくらいだ。時間の方向性って一体何なの?、というか、人間が「世界を見る」ということが、一体どういうことなのか、増々訳が分からなくなる。人が見ることの出来るものは、実は既に頭のなかにあるものだけなのではないのか。新たな発見によって、「現在」はじめて見ることが出来るようになったはずであるものが、そのように見えない(かつて見た懐かしいものであるように見えてしまう)というのは、どういうことなのか。新たに発見された、世界的にも珍しい鍾乳洞の映像を観ていて思い出すのが、江戸川乱歩の『パノラマ島奇譚』である、というか、それを原作とした土曜ワイド劇場の『天国と地獄の美女』である(ぼくはこのDVDを持っている!)、というのは、いくらなんでもあまりに非科学的であり、過剰に(あまりに安っぽく)ロマン主義的であり過ぎると、我ながら思う。でもそれはきっと、観ているのがたんに映像であり、ぼくの見方が粗っぽいからなのだろう。解像力の問題。実際にその場に行って見るとしたら、あるいはその由来を科学的に探求するとしたら、もっと全然別のものが見えるはずだと思う。科学の重要性は、「新しいものを、新しいものとして見る」ということにもあるのかもしれない。
●『エヴァ』のオリジナルシリーズの17話から20話までをDVDで観る。だいたいこのあたりが、『新劇場版・破』で描かれる物語の主な部分。いろいろと忘れているところもあり、比べて観ると、改めて『新劇場版』が相当考え抜かれてつくられているのだと感じた。とはいえ、エヴァが覚醒するところなどは、オリジナル版の方が圧倒的に凄い。それはおそらく、技術的なこととかではない。『新劇場版』は、全体として「父」の力を示す要素が強く「母」の力の要素が希薄で、そのことは、女性の登場人物で「父との関係」を担当するミサトに対して、「母との関係」を担当するリツコの存在が、『新劇場版』ではきわめて希薄であることからも分かる。オリジナル版で、ネルフ本部を制御しているはずのコンピューターシステムでありグランドマザーのような存在でもある「マギ」(これはリツコの母親がつくった)という名前が、おそらくいままで『新劇場版』では一度も出て来ない、とか(リツコの母の存在は完全に抹消されている)。しかし、エヴァンゲリオンというロボット(?)がそもそも「母」のイメージであるはずで、『エヴァ』そのものも非常に母性的な話で、それがこの作品の吸引力と気持ちの悪さの元となっているように思う。エヴァの覚醒-暴走や、エヴァがシンジを取り込んでしまうということの怖さと迫力は、まさに「母」というものの恐ろしさではないだろうか。エヴァがゲンドウによるコントロールから離脱するのは、人間の知性に対する自然(世界そのもの)の力の発現というのではなく、父の原理に対する、それとは異なる母の原理の作動ということであるはずなのだ(オリジナルにおいては父は完全に「張り子の虎」で、ゲンドウが求めているものはシンジが求めているものとほとんどかわらない、つまり「母」であろう)。だから、「母」の力(気味の悪さ)が充分に示されていない『新劇場版』では、エヴァの覚醒があまり怖くないのだと思う。『新劇場版』が普通のロボットアニメみたいに感じられてしまうのは、「母の力」の不気味さが、かなり抑制されているからでもあって、しかしそれは、かなりの割合で製作者にとって「意識的」なことなのかもしれないけど(だがそもそも、「ロボットが動く」というアニメーションの根本的な欲望それ自体が、幼児的で、母性的-想像的な欲望であるはずなのに)。
オリジナルでは、ミサトやレイにも付与されていた母親的なイメージは、『新劇場版』では限りなく希薄になっている(ミサト-シンジの関係は、保護者-被保護者というよりも、擬似的なカップルという側面が強く出ている)。そもそもレイというキャラクターは「母のイメージ」のコピーであったはずなのに、そうではなくなっている。もしかしたら『新劇場版』は、オリジナル版を動かす力動であるとともに、破綻させる元凶でもあった「母の力(その親しさとおぞましさという両価性)」を、複数回反復される世界という設定された「世界の原理=現実原則(というよりも、実はたんに設定された「ゲームの規則」)」に置き換えて、それを完全に抑圧する、という話になるのかもしれない。(あり得ない)母との一体化としての「人類補完計画」による「死の抑圧」から、複数回繰り返される(やり直せる)擬似的永劫回帰による限定性の排除(と、そのような世界を主体的に変化させ得る戦略的な行動)による「死の抑圧」への移行(「永劫回帰」はやり直し出来ないはずなのだから、やり直せる点でそれは擬似的なものに過ぎない)。だとしたらそれは、「父」の「母」に対する完全な勝利となるだろう。でも、それってほんとに「そんなに立派なこと」なの?、という疑問はある。(だとしたら、誰にはばかることもない、抑制を欠いた、幼稚な欲望と暴力の発露である『ボニョ』とは、完全に逆向きということにもなる。)そのような世界では、エヴァの覚醒=ポニョの変身は、「あらかじめ織り込み済み」の出来事となり、その内実は空洞化する。
製作者たちが、再び『エヴァ』をつくりなおさなくちゃいけないと思った必然性は、要するに、19話のエヴァ覚醒までは良いのだが、その後、20話以降で方向を見失ってしまったから、とにかく、20話以降をちゃんとやり直して決着つけておかないと、死んでも死に切れない、ということなのではないか。だとすれば『新劇場版・Q』こそが、その20話以降ということなのだから、これまでの『序』と『破』は、そのための地ならしというか下地づくりということになろう。だとすれば、なおさら『Q』を観てみなければ何も言えないということになる(だが、繰り返し反復される世界が、作品としてどのように「決着」されるのだろうか)。しかし、それが「母」の抑圧ということになるのだとしたら、破綻の原因を抑圧するだけでなく、作品そのものを起動させていた力さえも抑圧するということになってしまうのではないだろうか。そもそも、『エヴァ』が面白さの多くは、物語の収束がなされず、クライマックスの後で空中分解してしまって、観客は出口のない物語のなかに取り残されてしまった、というところにあるのだから。終盤の迷走=破綻こそが『エヴァ』という作品に刻まれてしまった運命であり必然なのだから、それは基本的にはやり直すことは出来ないのではないだろうか。
●だが、前にも書いたけど、作品を起動させている力動が見失われ、作品そのものの内実が空洞化したとしても、一度成立してしまったキャラクターの固有性は残り、それは一定の力を発しつづける、というのはとても不思議なことだ。作品そのものを起動させ、持続させるモチーフや内在的な秩序に対し、キャラクターは過剰な何かであり、作品から外在化されてしまいもする。キャラクターの自律性が、作品の内部に外的な力を招き入れて、別物にしてしまうことさえあり得る。作品そのものに対する、登場人物(キャラクター)の優位というのは、確かにあるようなのだ。キャラクターは、エクリチュールとはまた別の原理によって、作品という制御を脅かす力をもつ。