●『コッポラの胡蝶の夢』をDVDで。コッポラは、いわゆる「へんなこと」を一切やらないことで、結果としてへんな映画をつくってしまうというような監督だと思う。コッポラの演出は、時間が、淀んだり、滞ったり、たゆたったりすることがなく、常に滑らかに流れつづける。だから、掴みどころがなく、その映画の時間に深く分け入ってゆくことが困難なまま、観客は自動的に終点まで運ばれて行くように感じる。流れに乗ることは出来ても、水面下に潜ることが出来ない。映像なのだから、はじめから表面だけがあり、深みなどないのだが、それでも、その内部に入り込めるという錯覚なり幻想なりをつくり出すことによって、例えば娯楽映画は、観客に一定の満足を提供することが可能になると思われる。それには時間の淀みが必要であるが、コッポラは時間を淀ませることをしない。コッポラの映画では、流れが滑らか過ぎるために、登場人物への感情移入のようなことは困難になる。特にその特徴が顕著なのが『タッカー』だと思う。やっていることは娯楽映画の王道のようなことばかりなのだが、それらがあまりに流麗に繋がり過ぎているので(夢を追いかけて挫折する男の話を、まるで『メリー・ポピンズ』や『オズの魔法使い』のように語る)、それが陰影や停滞を含む物語内容と齟齬をきたし、観客はその物語内容を「味わう」ことから疎外され、結果として、イメージの流麗さを愛でるシネフィルだけが喜ぶ映画となる。その、野心と結果との間の捩じれにこそ、コッポラという作家がいるようにみえる。
そのような意味で、『コッポラの胡蝶の夢』は、作品の主題と、コッポラの特徴がぴったりと合致しているように思われる。ここで、滑らかに流れ過ぎてとっかかりがなく、手応えを感じさせない時間の流れは、主人公が経験する、夢とも現実ともつかない時間の実質とぴったり重なっているからだ。例えば、インドで夜、主人公と女性とがタクシーに乗り込み、「このまま二人で遠くへ行こう」と言って抱き合う場面の後、いくつかのマルタ島の(昼間の)風景ショットが挿入され、つづいて、マルタ島でタクシーから降りる二人のショットへとつづく。この場面の連鎖やリズムからは、まるでこの二人が、インドで乗り込んだタクシーでそのまま一夜明けてマルタ島にまで辿り着いてしまったかのような感じを受ける。実際には、画面上のタクシーは車種がかわっているから、そんなことはないのだが。つまり、ここで、物語上ではあきらかに切断があり、時間が流れ、休符が差し挟まれているのに(小説だったら一行空け、みたいな)、観ている映画の時間の流れやリズムとしては連続している。これによって、物語上の時間の分節と、映画を観ている観客が経験し体感している時間の分節とに食い違いが生じ、そういうことが重なるうちに、出来事とそれが起こっている時間との結びつきがあやしくなってくる。つまり、出来事が現実的な基盤としての時間軸をもたない、夢のなかの、あるいは記憶のなかの出来事のようになってくる。この映画の中盤では、第二次世界大戦とナチスの台頭が、映画と外の時間(現実)との関係を示す参照項となり、物語上の出来事におさまるべき時間軸を与えてはいる。実際に、主人公はナチに追われて逃げ回ることになる。しかしここでも主人公は、ナチの追跡をいとも簡単に(あまりにも滑らかに)かわすことが出来てしまうので、この「ナチの追跡」という事実がそもそも(現実的な時間軸から切り離された、切迫感のない)「夢の出来事」に過ぎないのではないかとさえ感じられるようになる。
出来事と現実的な時間軸との乖離は、この映画の終盤には、物語的な主題ともあいまって、増々激しくなってゆく。八十歳を超える年齢にもかかわらず、四十代にしか見えない(かつ、超人的な能力と「分身」をもつ)主人公が、若い頃に別れ、既に亡くなってしまった唯一の恋人の生まれ変わりのような二十代の女性と出会うのだが、この女性は、古代インドの修行僧の記憶に支配されてしまっている。この時点で、いったい「現在」というのが何なのか分からなくなる。女性は、現在(?)二十代であるその女性自身であると同時に、主人公のかつての恋人の生まれ変わりであり、さらに、古代インドの修行僧でもある(古代インドの言葉を喋り、それしか理解できない)。我々が「今」見ているその女性のイメージ=身体は一体誰なのか。つまり「このイメージ」は一体どの時間(時代)に属しているのか分からなくなる。主人公は、かつての恋人へ永遠の愛を誓っていて、その二十代の女性がかつての恋人だと何故か確信しているのだが、その「永遠の愛」の対象の同一性は一体何によって保証されているのかもよく分からない(オリジナルの「本人」は死んでしまっているはずで、たんに「似ている-同じ女優が演じている」という以上の「何」があるのかは、そもそも「映像」からでは感受できない)。女性は、古代インドの修行僧の記憶からは解放され、現在二十代である自分(?)の記憶を取り戻すのだが、主人公にとってその女性は、ひきつづき明確にかつての恋人そのものでもあるのだ。女性は、その後も様々な古代の人物に取り憑かれるのだが、決して「かつての恋人」の記憶が蘇ることはないのにもかかわらず。
二人はインドを離れ、マルタ島で一緒に暮らすようになる。すると、一方でいつまでもまったく見かけのかわらない主人公に対して、二十代であるはずの女性は、急速に老け込んでゆく。ここで老けてゆく「彼女」は一体誰なのか?ここまでくるともう、全ての人物に等しく作用する基準としての時間軸が成り立たないし、一人の人物の連続性や同一性(固有性)もきわめてあやしくなる(終盤、この女性は再び若返って子連れで登場する)。だから、出来事を時間軸に位置づけることにほとんど意味がなくなる。主人公がナチに追われていた時はかろうじて有効だった、これは西暦何年の出来事である、という外部の現実との参照関係は、意味をなさなくなってしまう。
しかし映画は、これらのことがらを、あまりに手際良く、あまりに滑らかに、あまりにあっさりと語るので、映画を観ている間は、次々と出来事を受け取るばかりで、混乱することさえ出来ない。目の前をするすると流れて行くイメージを、手の中から水がこぼれてゆくのを眺めるように、とっかかりもなく眺めつづけるしかない。勝手に眼前を過ぎ去って行く人々の流れを観るようだ。映画を観終わって、今まで観てきたものをあらためて「思い出す」ことによって、はじめて混乱することが出来るのだった。この感じがとても面白い。
●あと、この映画では、分身と夢の表現の仕方がすごく面白い。基本的に滑らかに流れる映画で、「繋がらない」ということだけによって分身や夢(と現実との混濁)があらわれる、みたいな感じ。上下逆さまとか、誰でもがやりそうでいて、こんなに効果的なのは他にあまり知らないと思った。あと、ブルーノ・ガンツがすごくいい。病院の空間とかも面白い。後から振り返って考えると、わりと安定した三部構成なんだけど、観ている間は、先行きがどこにゆくのか分からない不安定感も面白い。
●コッポラはこの映画の、準備、撮影、編集のため、15ヶ月間ルーマニアに滞在したそうだ。そいうい話を聞くと、そういうペースで仕事が出来るのがほんとにうらやましいと思う。勿論、巨匠だからこそってことなのだが。