●昨日は夜中遅くなってから『デジャヴ』(トニー・スコット)をDVDで観ていた。トニー・スコットに思い入れはないし特に好きな監督でもないけど、『デジャヴ』はすごいと思う(トニー・スコットといってまず『デジャヴ』が出てくることからしてファンではないことは明らかだけど)。
『デジャヴ』は、一方で複雑で思弁的な設定と物語をもつ時間を扱ったSFであり、もう一方でタフな主人公が(仲間と連携しつつも)自らの知恵とからだ一つで難局を乗り越えてゆくというシンプルなアメリカ映画である。この映画のすごさは、思弁的な複雑さとアクション映画のシンプルさとが嘘のように溶け合って一つになっているところだと思う。例えば『マトリックス』だって『インセプション』だってそうだとも言えるけど、その噛み合い方の精度が違う。思弁部分とアクション部分とが分離していない。
例えば、主人公の男は、事件に関係がある女を最初に一目見た時から既にある感情を抱いていることを感じる。そしてさらに、主人公と、はじめてチームを組む他のメンバーたちとの間には、まるで長年の仲間であるかのように阿吽の呼吸が成立している。このことには二種類の解釈が成り立つ。一つは、この映画はループする時間をめぐる物語であり、映画として実際に描かれているのは最後の成功したループのみであるが、その前に複数回の失敗したループがあることが匂わされている(「二度目だ」というようなセリフがあるが、おそらくもっと多いはずだ)。だから、主人公は、記憶にはないにしても「別の時間軸」において既に女に会っているし、女や仲間たちと共に危険なミッションを複数回経験している(そして、主人公も女も複数回死んでいる)。その「別世界」での記憶-経験のこだまがデジャヴとなって作用しているという解釈。もう一つの解釈はもっとシンプルだ。シンプルなアメリカ映画においては、主人公とそのパートナーとなる女性とは運命的に出会うものであり、そして、主人公とその仲間とが共にプロフェッショナルであるならば、彼らは、分野が異なっていても、仮に性格的にそりが合わなかったとしても、重要な場面になれば必ず目と目で通じ合うことが出来るものだ、それがジャンルの(もっと言えばアメリカ映画の)歴史であり規則であり呼吸であり、つまり思想であり、それは理屈ではないのだという解釈。
複雑なプロットや思弁がもたらす帰結と、シンプルなジャンルの規則がもたらす帰結とが、「解」としてはぴったり重なっている。一つの出来事が、一方で高度な思弁的複雑性を表現しており、他方できわめてシンプルな事件のてん末とアクションの連鎖とを表現している。このどちらか一方として優れた映画は他にも多数存在するだろうけど、この二つが隙間なくぴったり重なっている映画はそうそうないと思う。
だから、この映画を観ることはそう簡単ではない。たしかに、この映画に織り込まれた複雑な時間構造など気にすることなく、なんとなくこんな感じという程度に理解出来れば、あとはノリで普通に面白いアクション映画として観ることも出来る。あるいは逆に、DVDを繰り返し再生したりして、複雑な時間構造を(例えば図に書いたりして)パズルを解くようにしてみても十分に楽しめるだけの仕掛けが隠されている(まるで『シュタインズゲート』のようですらある)。でも、この映画ではそれらは分離していない。だから観客もまた、動いている場面をリアルタイムで追って観ることを通じて、複雑さ(時間の秩序を外れること)とシンプルさ(時間のなかで運動すること)の両方を同時に受け取ることが出来るように観るのでなければ、この映画をちゃんとと観たことにはならないのではないかと思う。
トニー・スコットにとってこの映画はやりにくい感じだったらしくて、本当はもっとシンプルな設定で撮りたかったとか、脚本のチームとずいぶん議論したというような発言をどこかで読んだ気がする(出典も憶えていない、いい加減な記憶なので信用しないでください)。でもそれが結果として、このような作品になったのだから、トニー・スコットのファンではないぼくにとってはそれがよかった。