●六本木の国立新美術館で「与えられた形象(辰野登恵子・柴田敏雄)」。柴田敏雄という作家のことを知らなかったので、何で「二人展」なのだろうと思っていたのだけど、会場に行って作品を観たら、二人の作品がシンクロし過ぎていて、一緒に展示してあると相互干渉が激しすぎて、ぼくにはちょっと「えーっ」という感じがしてしまって、なるべく二人の作品を切り離して観るように努力しながら観ることとなった。
●おそらく作品が内包している空間のスケールというのがすごく似ているのだと思う。これは、実際の作品のサイズのことでもないし、作品に描かれている(作品によって参照されている)空間の大きさとも違う。個々の作家がそれぞれ抱えている内的な空間イメージが作品上にあらわれた時のスケール感のようなもの。これはきわめて感覚的、直感的に捉えるもので、「ぼくはそう感じる」という以外に言いようがないし、他の人がどう感じるのかはわからないとしか言えないのだけど、でもそれは(少なくともぼくにとっては)曖昧なものではなく、ある作品、ある作家を観るときに最初に感じられる、作品へ入り込んでゆくとっかかりになるようなものだ。ある作家がもっている空間のスケール感はそう簡単にかわるものではない(まったくかわらないということではなく、ある時すぽんとかわったりもするけど)。作風は意識的にかえることが出来ても、空間のスケール感をかえるのは容易ではない(これは「色感」と同じくらいはっきりとあるようにぼくには思われる)。
一方は絵画であり、もう一方は写真であるけど、二人はこのスケール感がとても近いように感じられる。ここで、メディアが異なる(作品の物理的サイズも異なる)からこそ一層、その近さがみえてくる気がした。で、表面的にはあきらかに違うのに、スケール感が近いものが並んでいると、スケール感同士で相殺が起こってしまい、混乱が起こってしまう。この体験は一般化できるものではなく、ぼくだけに起こることなのかもしれないけど、とにかく、自分のなかで、作品を観るときに頼りになるスケール感が失調してしまうというか、何と言ったらよいか上手く説明できないのだが、ある惰性的な流れのような、濁った感じの空気が漂ってしまう(一人の作家で統一されている時は、こういう感じにはならないのだけど)。繰り返すが、これはぼくだけの特殊な感覚かもしれず、だから「二人展」への批判ではないのだが、しかし、ぼくとしては、出来れば一人一人別々に見せて欲しかったと思ってしまった。
二人の作品が互いに噛みあわせられるような展示になっていたことにも混乱した、ぼくは作品にチューニングを合わせて没入する方なので、たとえばいろいろな作家の小説をあつめたアンソロジーなども、読むのがとてもキツイ。スケール感は、そのチューニング合わせの時の一つの重要な「頼り」なので、それが連続したままで、違う作家の違う感触があらわれると、きっと混乱するのだろう。まあ、この混乱自体が貴重な経験だともいえる。
●二人が似ているのはスケール感だけではない。構成は必ずしも平面的というわけではないが、三次元的な座標が安定しないような、安定にはどこか一個足りない感じになるような、空間を失調させる脱中心的なフレーミングをすることが多い。つまり、基本はあくまでグリッドにあるのだけど、グリッドを失調させるようなフレーミングが多用される。そしてもう一つ、平面的でもなければ空間的というわけでもない、ある「ぐっと出てくるようなボリューム感」を時々すごく強調するという点も似ている(たんにテクスチャーの強調ではなく、重みをもったそれがこちら側にぐっとせり出してくる感じ)。どちらの作家の作品も、この、過剰にぐっと出てくるボリュームが、作品平面の全体を、平面にも空間にも納まらない不思議で動的な場にしているように思える。
●特に辰野登恵子においては、「形象」は、グリッドが崩壊する時に、崩壊によってグリッドの抽象性が(半)具象的なものへと転生して顕在化したもののようにぼくには見えた。形象は具体物をあらわす形象としてあるのではなく、場(座標)を支えきれなくなった抽象的なグリッドの代理として、決して完全な代理となり得ることのない不十分な、急場しのぎの、しかしそれによって具体性(感覚性)を帯びることとが可能となった代理として、あらわれたものではないか。だからこれらの形象は、具象的な形態が先にあってそれが絵画の形式的、空間的要請に従って(半)抽象化されたもの(つまり、外から「与えられた」もの)というよりも、抽象的な座標が、その崩壊にともなって(半)具象性と結びつき、それへと姿を変えてあらわれたものとして見る方が自然だと思う。それは抽象性そのものの形象化であるように感じられる。
柴田敏雄の作品においても、あらかじめ作家のなかにあるグリッド(グリッドの変容)に合わせて、対象となる風景やフレームが選択されているように思う。
●実際、辰野登恵子の(例外的な数枚を除いた)ほぼすべての作品は二項対立的な構造をもっている。二つのものの対立、拮抗、繰り込みとずれ込み、明滅、が、常に作品構成の基本単位としてあり、そのような「二」による対立が複数、層として重ねられ、あるいは互いに入れ子になることで全体がより複雑な動きとなり力の絡み合いとなっている。つまり「二」という抽象がまずあり、ある「二」と別の「二」、そしてさらに別の「二」との、重層や絡み合いがあり、つまりそれが抽象的なグリッドである。しかし「一」と「一」との拮抗である「二」の均整が崩れる時に、例えば一方の「一」は「1」となり、もう一方の「一」は「₁」となるという風に(半)具象化が生じて形象があらわれる。すると、層をなしていたり、入れ子になっていたりした他の「二」たちもその影響を受けて動き出し、振動をはじめる、ということになるのではないか。
(形象と背景、対になった形象、対になった流れ、対になった色彩、主な形象と副次的形象、ポジティブな線とネガティブな線、明暗、前後、左右反転、上下反転、等々、たくさんの二項対立が絡み合って画面が生成されている。)
●ここまで書いてはじめて、ぼくが何故「二人展」であることに過剰に抵抗を感じたのかが少しわかった気がする。つまり、基本的に「二」の作家である辰野登恵子の作品が、非常に似た感触のある別の作家の作品と「二」として並べられてしまうと、二人展全体があたかも辰野登恵子の作品構造の振幅のなかに(辰野的明滅として)巻き込まれてしまうかのような感じになってしまうからではないだろうか(柴田敏雄の作品には「二」という構造は特に目立たないから、その点は似ていない)。
●基本的に二項対立の複雑な絡み合いでできている辰野作品のなかで、二項対立に納まらないのが「過剰に強調されるボリューム」だろう。この過剰なボリュームは、辰野的二項対立に納まらないだけではなく、辰野作品とアメリカ型のフォーマリズム絵画やその延長にある作品群とを決定的に隔絶させる「しるし」でもある(辰野作品をキッチュに見せてしまいかねない、非常にヤバイところでもある)。
ここでぼくが思い出すのはマティスだ。マティスは、あきらかに平面性への指向が強い作品の真ん中に、ごろっとしたボリュームをもつ女性のヌードを置いた作品を多数描いている。形式的には破綻とギリギリであるようにみえるこのようなボリュームをマティスはなぜ画面に導入するのだろうか。マティスが描きたかったのは、立体感や空間ではなく、人体のプロポーションでもなく、量感だったのだろう。そしておそらくマティスにとって、量感は空間(三次元)的なものではなかったのではないだろうか。
ボリュームは平面的ではなく、平面を逸脱してこちら側に迫ってくるが、三次元座標のなかでの位置や形態でもない。ボリュームは、迫ってくる何かではあっても、でっぱりではない。重そうな何かではあっても重さでもない。それは非常に直接的で露骨な「現れの強さ」であろう。おそらくそれが、グリッドを瓦解させ、抽象を形象へと転生させる力であろう。形象によってボリュームが顕わになる。しかし、ボリュームは形象そのものでもない。
その強さは、時に単純な中心性を生み、作品の動きや振動を阻害してしまいかねない、とても危険なものでもある。2000年以降の作品では特に、その危険をいとわないような、非常に強いボリュームへの志向が感じられた。