●硨島伸彦さんから教えてもらった。ニューヨークのGAGOSIAN GALLERYの一つで、今、「Composing with Color: Paintings 1962–1963」というフランケンサーラーの展覧会をやっている。すごく観たい。これをこのまま日本にもってきてもらうというわけにはいかないだろうか。
http://www.gagosian.com/exhibitions/helen-frankenthaler--september-11-2014/exhibition-images
●グーグルの画像検索で「Helen Frankenthaler」を検索すると、とてもすばらしい状態があらわれた!!
https://www.google.co.jp/search?q=helen+frankenthaler&rlz=1C2SFXN_enJP498JP518&biw=1237&bih=766&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ei=H1YpVNWJK8Hi8AWP7YHYCg&sqi=2&ved=0CAYQ_AUoAQ
●辰野登恵子さんが亡くなった。近年の辰野さんの作品は、ぼくにとって、それを無条件で素晴らしいと言うことに抵抗を感じるような、強くひっかかる謎のようなものとしてありました。
以下は、2012年8月22日のこの日記からの引用。国立新美術館の「与えられた形象」展を観た日に書かれた。辰野作品にあらわれる「ボリューム」という謎に圧倒されている。
《実際、辰野登恵子の(例外的な数枚を除いた)ほぼすべての作品は二項対立的な構造をもっている。二つのものの対立、拮抗、繰り込みとずれ込み、明滅、が、常に作品構成の基本単位としてあり、そのような「二」による対立が複数、層として重ねられ、あるいは互いに入れ子になることで全体がより複雑な動きとなり力の絡み合いとなっている。つまり「二」という抽象がまずあり、ある「二」と別の「二」、そしてさらに別の「二」との、重層や絡み合いがあり、つまりそれが抽象的なグリッドである。しかし「一」と「一」との拮抗である「二」の均整が崩れる時に、例えば一方の「一」は「1」となり、もう一方の「一」は「₁」となるという風に(半)具象化が生じて形象があらわれる。すると、層をなしていたり、入れ子になっていたりした他の「二」たちもその影響を受けて動き出し、振動をはじめる、ということになるのではないか。
(形象と背景、対になった形象、対になった流れ、対になった色彩、主な形象と副次的形象、ポジティブな線とネガティブな線、明暗、前後、左右反転、上下反転、等々、たくさんの二項対立が絡み合って画面が生成されている。)》
《基本的に二項対立の複雑な絡み合いでできている辰野作品のなかで、二項対立に納まらないのが「過剰に強調されるボリューム」だろう。この過剰なボリュームは、辰野的二項対立に納まらないだけではなく、辰野作品とアメリカ型のフォーマリズム絵画やその延長にある作品群とを決定的に隔絶させる「しるし」でもある(辰野作品をキッチュに見せてしまいかねない、非常にヤバイところでもある)。
ここでぼくが思い出すのはマティスだ。マティスは、あきらかに平面性への指向が強い作品の真ん中に、ごろっとしたボリュームをもつ女性のヌードを置いた作品を多数描いている。形式的には破綻とギリギリであるようにみえるこのようなボリュームをマティスはなぜ画面に導入するのだろうか。マティスが描きたかったのは、立体感や空間ではなく、人体のプロポーションでもなく、量感だったのだろう。そしておそらくマティスにとって、量感は空間(三次元)的なものではなかったのではないだろうか。
ボリュームは平面的ではなく、平面を逸脱してこちら側に迫ってくるが、三次元座標のなかでの位置や形態でもない。ボリュームは、迫ってくる何かではあっても、でっぱりではない。重そうな何かではあっても重さでもない。それは非常に直接的で露骨な「現れの強さ」であろう。おそらくそれが、グリッドを瓦解させ、抽象を形象へと転生させる力であろう。形象によってボリュームが顕わになる。しかし、ボリュームは形象そのものでもない。
その強さは、時に単純な中心性を生み、作品の動きや振動を阻害してしまいかねない、とても危険なものでもある。2000年以降の作品では特に、その危険をいとわないような、非常に強いボリュームへの志向が感じられた。》