三菱一号館美術館に「フィリップス・コレクション展」を観に行った。
とてもよかった。これが個人のコレクションであることに驚く。ダンカン・フィリップスという人は本当に目利きだったのだな、と。それぞれの作家の、代表作というのではないけど、その作家のよいところが存分に発揮されている作品を、的確に選んで買っているという感じがある。近代絵画のエッセンスを凝縮した小さな庭園のような展覧会だった。
特にボナールは、ボナールの最高水準の作品なのではないかと思った(ただ、ピカソだけは、なんでよりによってこれなの?、と思うような、いまいちのピカソだと思ったのだけど)。
この展覧会で最も気になったのが、ブラックの「鳥」だった。実は、この展覧会のホームページで「鳥」の画像を観て、すごく気になったから展示を観に行ったのだが、実物もとても面白かった。
「鳥」は五十年代の作品だから、マティス以降であり、既に抽象表現主義などもある時代なので、そんなに先鋭的な作品というわけではない。でも、絵画が宙に浮くというか、地面との接点から解放されるようにありえる時の、そのあり方として、こういうやり方は他にあまり知らない。
フレーム内にフレームが反復され、しかも図と地の多重な反転が仕掛けられることで、フレームが宙に吊られるというか、物理的なフレームが画面内フレームとの関係が相対化して、フレームの内と外との関係も相対化する(フレーム内とフレーム外が相互包摂的に入れ子のようになり、反転可能になり、フレームの底が抜ける)、という構造は、マティスなどにも既にみられる。だがそこで、鳥の形象が、空としてのフレームでもあり、かつ鳥の形でもあるという二重性をもつように描かれることで、鳥の形として捉えられるものが「鳥」として捕らえられないというような不思議な感覚が生じる。その、鳥を形としてはつかめるが、「鳥としてはつかめない(触れられるような手応えがないし、位置も特定できない、鳥を「どこ」に見ているのか分からない)」ということが、空という地と一体となっているような鳥の飛行の状態を、無視点的に(どこか特定の視点から見たというわけではない、理念的でしかしリアルな視覚像のように)あらわす。そのようなことが、ブラックの「鳥」では起きているように思う。