(つづき、)
●京都駅では、伊勢丹の、えき美術館で「ベルグラード国立美術館所蔵フランス絵画展」を観た。まあ、よくある「なんとか美術館コレクション展」というやつで、とくにそんな凄い作品があるわけではないけど、意外に見応えがあった。ピサロの風景画は(一緒に展示してあったモネなどと比べるとよく分かるのだが)、印象派とはいっても光を「追いかける」というより画面から光を「感じさせる」ために画面をしっかり構築するという感じで、構築的印象主義というか、印象派とコローの折衷的な表現とでもいうべきもので、このような作風がセザンヌに与えた影響はかなりのものがあったと実感させられた。ピサロの絵自体は、とても上品なものではあってもそんなに凄いものではないのだが、セザンヌがセザンヌとなるための媒介者として、重要な存在なのだと改めて感じたのだった。もし、セザンヌがピサロと共に制作することで影響される(実践的な手解きを受ける)ことがなかったら、セザンヌとなることはなかったかもしれない。なにより、セザンヌのような難しい人と、共同生活をし、共に制作をすることが可能であったという「人柄」は貴重なものであり、そのような人柄が作品からも感じられるように思う。
パスキンというエコールド・パリの画家がいて、まったく大した画家ではないのだけど、「趣味」として、ぼくはけっこう惹かれるものがあるのだった。タイトルは忘れてしまったけど、この展覧会で展示されていた、パリの路地の奥にあるような建物の小さな中庭の空間を描いた絵も、まあ、児童文学の挿絵に良いというような絵ではあるけど、悪くなくて、この「拾い物」が観られただけでも来て良かったという感じだ。(この後行った、大阪の国際美術館でもパスキンの絵が一点展示されていて、これも悪くなかった。こちらは、幼い女の子が下半身だけ裸でベッドに横になっている、というモロにロリータ趣味でエロ目線の絵なのだけど。)
あと、ボナールという画家は、基本的に室内の画家なのだけど、ボナールの描く黄色からオレンジくらいの色は、ものすごく「太陽の光」を感じさせる、とか、マティスは、点描やフォーブの時代から、そのグループのなかにはいても、はじめから異質で、一人でまったく別のことをやっていたのだなあ、と、マティス以外の点描派やフォービズムの画家の絵を観ていると感じる、とか、(ブラマンクってほんとにセンスのない画家だなあ、とか)いろいろ思った。
●この展覧会を観終わった時点でもう三時をかなりまわっていて、さらに朝からずっと歩き通しだったのでかなり疲れてもいて、(「もの派展」を観るために)大阪まで行くのがめんどくさくなっていた。京都から大阪までは40分くらいはかかるので、国立国際美術館に着くのは4時を過ぎてしまうだろうし、美術館は5時までだろうから、そんなにゆっくり観られないし、どうしようかと迷ったのだが、せっかく京都まで来たのだし、「もの派展」は関東には巡回しないので、かったるいなあと思いながらも、大阪行きの電車に乗るのだった。
(つづく)