07/10/06

●渋谷のBunkamuraで、「ヴェネツィア絵画のきらめき」。なんともチャチい展覧会だけと、ティツィアーノの「洗礼者ヨハネの首をもつサロメ」を観られたのはよかった。イタリアに行って浴びるほどに絵を観た時にも感じたのだが、展覧会全体を通して、油絵の具という物質から、何と言ったらよいのか、ある鬱陶しさというか、独自の気持ちの悪い強さを感じた。そしてその質感に、自分からは遠いような距離感を強く感じる。キリスト教についてはほぼ何も知らないのだけど、パンがキリストの肉でワインがキリストの血であるように、油絵の具もまた、キリストの肉であるかような、生々しくも気味の悪い感触だ。おそらくこの感触こそが「油絵」なのだろう。だが例えばクールベ以降の近代絵画からは、そのような感じは受けない。だから、リアリズムというのは、たんに「見えるものを描く」ということ以上に、まず油絵の具という物質そのものの捉え方が、ヴェネツィア派以降クールベ以前の西洋絵画とはまったく異なるということのなだと思う。
ブリヂストン美術館で、「セザンヌ 4つの魅力」。セザンヌはちょっとしかなかった。最近つくづく思うのは、ぼくにとって絵画とは、要するにセザンヌマティスのことなのだ。時によって、マティスより断然セザンヌだな、と思ったり、でもセザンヌだけだとあまりに貧し過ぎて、絵画の悦びはマティスにこそあると思ったりするのだけど、でもセザンヌマティスであることはほとんど揺らがない。で、セザンヌティツィアーノやヴェロネーゼのようなヴェネツィア派に繋がり、マティスはピエロ・デラ・フランチェスカのようなフィレンツェ派(?)につながっているのではないだろうか。
とはいえ、セザンヌは視覚的にはとても貧しい。視覚的な豊かさという意味では、ブリヂストン美術館にある作品でも、例えばルノアールの宝石のような色彩とか、モネの空気のなかの光りの揺らめきを捉える目とか(ブリジストン美術館のモネとルノアールはとても充実している、マティスはイマイチだけど)、そしてなにより、ぼくにとって視覚の悦びと言えばボナールなのだが、そういうものに比べ、セザンヌは視覚的には貧弱だとさえ言える。セザンヌの絵は、それを「観る」ことによって、視覚とは別の何かが駆動される感じなのだ。視覚よりも深くて捉え難い、自分のなかにある自分以前の何かが動き出す感じ。
●ポリアコフが一点展示されていた。ポリアコフは別にこれといって面白いわけではない。というか、むしろ退屈な抽象絵画なのだが、ぼくは何故かとても好きで、惹き付けられてしまう。色彩というより、絵の具の感触が、自分のある部分とすごく「馴染む」感じなのだ。
ブリヂストン美術館に行って、エジプト時代のセクメト神像とかブロンズの猫の像とかを観るたびに、人間は三千年くらい前からほとんど変わっていないのだなあと感じる。これは、自分が生きている現実(のある部分)にとても近い、という感触。むしろ、キリスト教的な西洋よりも、ぼくには紀元前10世紀前後のエジプトの方が身近にさえ感じられる。