07/10/05

●八月いっぱいかけて書いて、その後何度か改稿した作家論が、どうやら完成、掲載のめどが立ってきた。午後からは、それとは別の件で、新宿で編集者と打ち合わせ。こちらの実現はまだちょっと先の話。その後、紀伊国屋をちらっと覗いてから、喫茶店にはいって、作家論とは別の原稿のゲラを直す。部屋に帰ると、また別の原稿依頼のメールがきていた。こうやって今日一日だけを切り取ってみると、なんだか売れっ子でとても忙しい人みたいにみえる。だから、あたかもそうであるかのように書いてみた。
ストローブ=ユイレルーブル美術館訪問』をDVDで。とても好きな映画。当たり前のことだけど、これは一見、絵画をひたすら観せているようでいて、思いっきり「映画」なのだった。例えば、ティントレットを観せた後、唐突にセーヌ河とその手前の木立の実景を見せる呼吸とか(木の葉が揺れ、水面がさざ波立ち、船が横切るこのショットは本当に素晴らしい)、ドラクロアの『アルジェの娘たち』を観せてから、次に『十字軍の入城』に移り、その後一時ジェリコーを観せて、すぐに『十字軍の入城』に戻り、ふたたび『アルジェの娘たち』に帰ってくる展開とか、あるいは、ヴェロネーゼの『カナの婚礼』の部分に寄ったり、引いたりする、対象とカメラとの距離の変化のタイミングだとか、こういうのは、絵画を「撮影対象」としながらも、絵画とは関係のない、映画としての、映画ならではの展開なのだった。ある意味それは、絵画を殺してさえいる。
●この映画でも朗読されている『セザンヌとの対話』でのセザンヌの発言から引用。《言い伝えによると、救世主の降臨の夜、パレスティナ中の葡萄の木に花が咲いたという。我々画家が描くべきなのは葡萄の開花だ。救世主の生誕をラッパで知らせる天使の急旋回ではない。自分の見たものだけを描こう。》
ここでセザンヌが言っているのは、文学的、物語的、象徴的な想像物である天使を描くのではなく、目に見える葡萄の花を描くべきだという、単純なリアリズムではない。セザンヌは、葡萄の花ではなく、「葡萄の開花」をこそ描くべきだと言っているのだ。花を描くのではなく、開花するということ、開花という出来事を描くべきだと言っている。それは開花を促す「力」を描くということでもある。それも、救世主の生誕の日の開花を。それはある意味、天使以上に「見えない」ものだ。