愛とはおそらく転移のことだ

●愛とはおそらく転移のことだ。つまりそれは、人は、自分の存在の手応えを確認するために、他者による承認を必要とする、ということだ。「欲望とは他者の欲望である」というのは、「欲望とは、他者が私を承認してくれることを望む、ということだ」の言い換えであろう。他者が欲望するものを得ることが、他者の承認が得られることの代替物として作用するからこそ、人はそれを欲望する。(私の愛するうつくしい女は、私の男性的魅力の「他者からの承認」を表現する、とか。)それはまた、人が欲望するのは常に他者である、ということでもある。人は、他者による承認を欲するからこそ、他者を欲する=愛する。ヴォネガットの言う通り、親切(他者への配慮)は愛よりもずっと貴重なものだが、残念ながら、欲望の強さとしては、愛より弱い基盤しか持たない。人は親切(配慮)だけによってはおそらく生きられない。そしてもし、人にとって愛が不可避のものならば、憎悪もまた不可避となろう。
人が「動物化」すれば、「他者の欲望(他者への欲望)」としての「欲望」は解除され、生理的、自己充足的な「欲求」の充足によって満足が得られる、というのは本当だろうか。つまりそれは、愛=転移は、本当に超越的なものの作動によってあらわれる「欲望」なのだろうか、という疑問だ。しかしおそらく、犬や猫にはあきらかに、ただ生殖の相手を求めるということに還元されない愛=転移が作動している。それはたんに、人間が勝手に自己の姿を投影して擬人化しているのではないだろう。親が一定期間子供を育てたり、あるいは序列のある群れをつくったりする動物は、少なくともその成り立ちに愛=転移が不可欠ではないのだろうか。犬や猫が親子でじゃれ合う時、それは補食行為の練習であるそうだ。つまりそれは、生得的な能力だけでは補食能力が充分ではなく、生まれた後の学習が不可欠だということだ。そしてその学習(教育)を行うのが親や群れのメンバーであるのならば、親や群れの先行世代による無償の贈与(ふりそそぐ愛)がなければ、子供は生きる能力を身につけられないということだ。そこでは、補食能力が生得的にセットされているのではなく、愛=転移の作動こそが、生得的にセットされている(おそらくその方が効率が良いのだろう)。つまり、愛=転移(他者へと向かう力動)は人間に固有に作動するものではなく、動物的な次元で、既に生得的にプログラムされてしまっているのではないか。例えば、猿の群れのなかでの役割や序列のようなものは、生得的にプログラムされることは不可能で、後天的に、群れの他のメンバーとの関係によって決まるのだろうから、ここでも明らかに愛=転移は作動している(愛=転移の方こそがプログラムされている)。あるいは、犬には転移が作動するからこそ、飼い犬は猫と違って家族のなかでの序列の位置(地位)を意識する。さすがに、象徴的なものの作動による「大他者」という概念は作動してはいないだろうけど、しかしボスという概念はある。たんに親から子へと注がれるものとしての愛が(あるいは子の親への依存が)、群れをつくるほどの転移にまで成長している以上、象徴的大他者(超越的な次元)の成立まではあと一歩ではないだろうか。群れのなかにいる猿が、群れの他の個体との関係によって自己の位置を認識しているとしたら、それはほとんど「欲望とは他者の欲望である」と紙一重ではないだろうか。勿論、象徴界の作動の有無は決定的な違いで、シニフィエシニフィアンの連鎖の効果としてしか決定されない人間において、主体の象徴的な位置は決して固定されないのだが、猿にとって群れの内部での地位は、一度決まれば決して揺らぐことはなく固定されるのだろうから。ただ、人間と共に生活する動物は必ずしもそうではないかもしれない。(自分で書いててもこの辺りはいかにもあやしい感じがするけど。)
ポストモダンといわれる思想が目指したことの一つに、人間的な次元で働き、人を束縛しもする愛=転移というものを、人間的な(再帰的な)自由のために、どのように相対化し、あるいは解除する(意識的に書き換える)ことが出来るかということがあったと思う。愛=転移は、対話を促し、コミュニケーションを可能にし、社会の成立を可能にするが、同時に、人を象徴的な閉域に閉じ込め、他者(仲間ではない者)を排除させ、憎ませ、殺し合いを促す。もし愛=転移が、象徴的、超越的次元において作動するものであるのならば、それは同じく象徴的、超越的次元(思想や倫理や言語)によって、相対化し、解体し、より良いものへと書き換えることも可能であろう。それはおそらく、再帰的近代の最も過激でうつくしい試みの一つであろう(68年的思想や共産主義というのはそのような試みとしてあったと思われる)。しかし、愛=転移が、動物的な次元で既に書き込まれたプログラムとしてあるとすれば、それは象徴的、超越的な次元によって書き換えることは難しいだろう。愛や性について、それを生物学的な由来に還元するような言説が、ポストモダンにおいては執拗に批判されつづけたが、それはどこまで有効なのだろうか。(有効ではないと言っているのではなく、うつくしいスローガンとしてではなく、冷静に「どこまで」有効なのか、が問題なのだ。)愛=転移が、種が生き残るための有効な戦略としてプログラムされているとするなら、人は、それによって悦びを得、それによって生きることが可能になるのだが、同時に(愛は常にその反転形としての憎悪を含むので)、その外にいる者を、憎み、排除し、貶め、殺し、殺し合わせるものでもあることも必然的だろう。すくなくとも、そのような「感情」から自由になることは困難だろう。(憎しみ、殺し合うことから解除されるためには、愛と悦びを捨てる必要があのだろうか。)
精神分析は勿論、言語=象徴界において行われるのだが、それを作動させる転移の発生には分析医の身体的現前(想像界)による媒介を必要とする。精神分析における想像界とは、生態的、生得的な次元を基盤に成立するものと言えるだろう。