●「外界を観る」の開一夫の発表で語られていたこと。赤ちゃんは生得的に人とそれ以外を見分け、人に強く興味を示す。そして、人のすることを模倣する。しかしその時、目の前に人がいる時と、テレビの画面のなかに人がいる時とでは反応が違う(テレビの場合、模倣の精度が悪い)。
だがこの違いは、必ずしも三次元と二次元の違い(フレームなしとフレームありの違い)ということではないという。テレビの画面でも、同時中継のようにして、お互い(赤ちゃんと大人)のアクションとリアクションとが、時間的なズレのない形で与えられると、赤ちゃんはちゃんと反応するようになる。この時、アクションとリアクションとの同期を、ほんの数秒ずらすと、すぐに赤ちゃんはテレビ画面への興味を失うという。
(ここから先はぼくの勝手な考え。)
ここからは、模倣とリズム同期によって、二人称的に、赤ちゃんにとっての世界がたちあがる様がみてとれる。これはおそらく、十川幸司『来たるべき精神分析のプログラム』で「情動」と呼ばれていた回路と同じものだろう。模倣とリズム同期は身体制御の調整であり、身体運動の制御がある情動的な雰囲気のなかで調整される、逆に言えば、情動的な回路が身体運動と不可分な形で作動していると考えることができる。
(ここからは、空間に対するリズムの先行性――空間よりも前にリズムがあること――も読み取れる。リズムを、自他が分離するより前の空間性と考えられる。)
赤ちゃんは、他人を通して(人間以外のものも含めた)世界に対応するための身体制御を形成する。樫村晴香は、子猫が母猫の尻尾の動きを追うことを通じて捕食に必要な身体制御を学ぶ様を、主体に先行する「愛」として語っていた。ここで子猫は、母猫の尻尾の動きそのものに直接反応しているのであって、母猫の動きを模倣するのではない。だがヒトは、自分と同種の存在の動きを模倣することを通じて身体制御を学ぶ。餌を得るための動きを(母猫の尻尾を餌に見立てて)直接シミュレーションする子猫とはこの点で違っている。
(人間にとって「環境」の多くを「人間」が占める。このことと、生物のなかで人間だけが(環境に適応するだけでなく)、意識的、積極的に環境を変えようとすることとは、関係があるのだろうか。)
ここから、ヒトという種の特異性を、「世界の二人称的な成立」とみることもできる。ここで、情動が模倣とリズム同期であるとすれば、赤ちゃんそのもののもつリズムは欲動であると言える。ここで、模倣を通じてリズムの同期が起きるということは、赤ちゃんのリズムにまわりの大人が合わせるということでもあり、赤ちゃんが目の前にいる大人のリズムに合わせるということでもある。
(模倣と同期は大人の側にも赤ちゃんの側にもあり、半ば受動的であり、半ば能動的である。)
赤ちゃんは、目の前にいる「ヒト」が自らの欲動のリズムに近づいた時にはそれを模倣し、それに同期しようとするが、一定以上ずれると、興味を失い、自らの欲動のリズムへともどってゆく、ということだろう。接続されては、切断されることの、繰り返し。
この時、世界とは他者のことであり、他者とは、ほとんど自分であるが、自分からちょっとだけずれたもの、ということになろう。しかしそもそも、自分とはちょっとずれたものがなければ、他から切り離して自分というものを認識することもないだろうから、「少しずれたものに同期しようとする」動きが自他の区別を発動させるのだろう。
ここに、世界のモデルでもあり、わたしのモデルでもある「他者」の二重性があらわれるのではないか。世界でもあり他者でもあるような他者があり、他者でもありわたしでもあるような他者があるという形で、他者の二重の二重性がある。そして、この二重の二重性を開くのが、「少しずれたもの」に対して発動される「模倣と同期」という動きといえるのではないか(しかし、ずれ過ぎれば切断される)。