●一日の日記で「感覚は閉じている」というようなことを書いたけど、それはあくまで「他者に対して閉じている」ということで、世界(環境)に対して閉じているわけではない。世界に対して閉じていなければ、感覚が、世界(物)を経由して間接的に他者と関係することもあるかもしれない(ないかもしれない)。
以下は、「現代思想」1月号の千葉雅也×清水高志対談での清水高志の発言。
≪ただ確かに、ホッブズにしてもスピノザにしてもラカンにしても、社会論や欲望の心理の分析は一つの椅子を取っていくゲームをモデルにしていると思います。ちょっと違うのはルソーで、彼の「自然人」はバラバラに森にいるわけです。≫
この対談ではルソーの話はこれ以上は出ないのだけど、これと同じような話を「中沢新一読書会」の時に清水さんから聞いた記憶がある。以下はぼくの記憶と理解に基づくものなので、清水さんの意図を正確には反映してはいないかもしれないけど、清水さんは、ホッブズの自然状態が「万人の万人に対する闘争」という風になるのは、人が人に対してしか存在していないからで、ルソーの考える自然人はそれとは違って、森のなかで一人一人が孤独にポツンといて、それぞれが自然に向き合っているというイメージなのだと、確か言っていた。
(例えば、おにぎりが一個しかなくて腹ペコの人が五人いるというのが欲望の椅子取りゲーム的な対他者的世界のイメージ――正確にはそのおにぎりは「不在の空項」となる――だけど、そうではなく、おにぎりは一個しかないとしても、他に、から揚げやプリンやメロンパンやうどんもある――あるいはそれは「予めある」のではなく、それぞれの人が個別に世界のなかから新たにそういう「未知のもの(ニッチ)」を発見(創造)し、引き出してくることが出来得る――という風に世界をイメージできれば、欲望の椅子取りゲームに参加しなくてもよくなる。他者ではなく自然に向き合う時、世界は他者との闘争の場ではなく宝探しのような場になる。
とはいえ、このような多様性のある世界が実現するのはけっこう難しいというのが、西川アサキ『魂と体、脳』の「中枢」に関するシミュレーションなのだと思うけど…。)
勿論、人は、人々のなかで生まれ、存在し、そうであるかぎり「他者に対して」存在する(他者たちによって生かされ、同時に強く拘束される)ことから逃れられないのだけど、でも、他者に対して「だけ」存在しているわけではない(例えば、人は物たちの関係――環境――のなかで生まれる、ともいえる)。例えば精神分析は、他者に対して存在する自己というシステム(言語や情動)、あるいは自己に対して存在する自己というシステム(欲動とそれが生産する空想や幻想)については精緻に語ることができるけど、自然(というか、世界というか、物質というか、あるいは「宇宙」といった方がいいかもしれないもの)に対して存在する自己というシステムについてはあまり上手くは語れない。つまり「感覚」が人に与える影響についてあまり上手くは語れない。
社会的な関係性というのは人に対する人の関係であって例えば商品や貨幣やテクノロジーは人と人との関係の媒介(表現)としてあるのだ、と考えるのではなく、人と人との関係、人と物との関係、物と物との関係が、それぞれ同等かつ自律したシステムとしてあり、それらのカップリングによって社会的関係が編まれているのだと考えるのがアクターネットワーク論的な発想だとするならば、感覚は、「他者」に対してはコミュニケーションを行わないとしても物に対してなら行うと言え、だとすれば、感覚が、必ずしも情動や言語を経由することなく、「物(物の形式)」を経由することで結果としてある関係性に干渉する(また干渉される)ということはあり得るのではないかと思う。
(十川幸司『来たるべき精神分析のプログラム』では、言語というシステムは、情動というシステムが上手く作動しているという条件の上ではじめて上手く作動するとされている。情動が上手く作動していないと、言語はたんに平板な記号になってしまう――自閉症者の場合――か、あるいは非常に強力で強制的で融通のきかない規範や体系になってしまう――統合失調症者の場合――、と。情動が上手く作動していないと、言語の行為遂行的な側面、言語の使用それ自体が他者への力の行使であるという側面が捉えられないとされる。
このことは逆に言えば、情動を経由しない時、言語は他者から切り離されてほとんど「物」のようになるということではないか。そして、言語を積極的に物のように扱うのが、数学や自然科学的な記述―体系だと言えないだろうか。だとすればまさに、そのような情動――情動的他者関係――を経由しない言語、政治的ではない言語――技術的言語――こそが、現代では、社会的な――対他者的な――関係性を大きく動かしていると言えるように思う。対人関係にほとんど興味をもたないギークが開発したテクノロジーが、社会的な関係性の配置を大きく変えてしまう、とかいうイメージは、いまやありふれてさえいる。技術的特異点、とか。
それを必ずしもすばらしいと言っているのではないが、そのような事態は対他者関係によって社会を記述する「欲望の椅子取りゲーム」的な社会論――精神分析を含む――ではなかなか捉えられないように思う。)
陶芸家が土に触れている時、ギタリストがギターに触れている時、プログラマーがプログラム言語に触れている時、数学者が数式に触れている時、彼らは「象徴(象徴形式)」に触れているのだろうか。あるいは、象徴を媒介とした感覚(言語に貫入された感覚)によって対象に触れているのだろうか。そうではなくて(あるいは、それだけではなくて)、感覚によって「物(媒体)の形式」に直接触れているのではないだろうか。あるいは、「物の形式」が感覚に直接働きかけているのではないか。例えば、花粉―花粉症という「物の形式」は、花粉症という概念を象徴的体系に持たない人の身体にも直接働きかけ、彼に鼻水を垂れさせる。花粉と鼻水を結びつける生体化学的な記号過程(物の形式)は、情動や象徴の作用とは無関係に働く。そして、鼻水を垂らす人は、自らの感覚=身体によって「花粉症」に、そうとは意識しないままに触れ、味わっている。
象徴形式に触れているのか物の形式に触れているのか違いは、「精度」の違いとして「感覚」に告げ知らされると思う。物の見方を学ぶというのは、他者たちによって形作られた型を学ぶことだけを言うではなく、物(世界)のなかから、感覚によってその新たな形式を直接発見することでもある。感覚によって触れられる時(つまり、間に「他者=情動」が媒介されていない時)、「土」も「ギター」も「プログラム言語」も「数式」もおそらく等しく「物=形式」なのではないか(現代の物理学において、イット――存在――とビット――情報――は区別がつかない)。それは、象徴的なネットワークとは異なる、物たちのネットワークによって規定されている「形式」だろう。
(例えば、「技術」というのは、他者を媒介としない「物(世界)」とのコミュニケーションなのではないか。ある種の技術は、結果として社会的関係に大きな影響を及ぼすこともあり、別の技術は、ささやかな範囲で他者との関係に影響を及ぼすかもしれないが、多くの技術は、個に現象する習慣のようなものとして、ただ密やかに自分自身を味わう。)
●他者と切り離されたところで行われる、感覚を介した世界とわたしとの関係のフィードバックの回路があり、そのなか(間)から生まれる、孤独で密やかなある「形式」のようなもの(そのような形式としての感覚)があるのではないか。ぼくは、そのような「形式」のなかに、生身の人間以上に強く「人」を感じる。それはつまり、人よりも「作品」に萌える、ということなのだが。まあこれは、ぼくの個人的な症候なのかもしれない。
●それにしても、『来たるべき精神分析のプログラム』はとても面白い。