●「アインシュタインなぜサイコロが嫌いだったか?」(樫村晴香)の最後の方に、とても重要なことが書かれていると思うので、自分自身の理解のために整理しておく。
精神分析空間以外の日常言語でも分配則が成立しない例として、「I didn't have a good time in France or England.」と「In France or England, I didn't have a good time.」という二つの文における意味の食い違いが挙げられている。
≪例えば一例として、"I didn't have a good time in France or England."、および"In France or England, I didn't have a good time."の二文を比較してください。前者は「フランスでもあるいはイギリスでもよい時を過ごさなかった」の意味を、後者は「フランスあるいはイギリスのどちらかでよい時を過ごさなかった」の意味を強くもちます。つまり前者で、orは結合される二つのものの相違を概ね禁じており、後者は二つのものの重なりを厳密に禁じているので、選言∨の本来の、というか古典論理学的規定を遵守するものとしての「フランスでよい時を過ごさなかった、あるいはイギリスでよい時を過ごさなかった」とは、両者とも異なる意味をもちます。ですから分配束は明らかに壊れています。≫
●そしてこの違いには「否定」の位置が深くかかわるとされる。後者では、選言が先行するため、「I had a good time」というポジティブな潜在的前提が「どちらで否定されたか」という形で意味が演算されるので共時的排他構造が働くが、前者では否定が選言に先行するので、「good time」に対する否定のニュアンスの方が強く出て選言的二層構造をつぶしてしまいがちだ、と。
≪しかしここで重要なのは、束をめぐる表面構造ではなく、選言∨として一般に画一的に規定・理解されている結合機能が、否定辞と相関しつつ、その内実を微妙に変化させる過程です。つまりこの二文の意味が異なるのは、主文の否定辞のせいであり、主文が"I had a good time"ならば、この相違は顕在化しません。これは単なる結合としての曖昧な選言作用が、排他的選択性、つまり共時分節を獲得するのは、通時的な否定作用という、語結合過程を通じてであることによっています。つまり後者の例をみると、フランスあるいはイギリス、という選択性は、構造的にはI didn't have a good timeの全体にはかかっていません。選択性は、I had a good timeという、文の表面にはない無意識上の前提与件が、どちらの国で否定されたかという形で駆動し、選択性は否定辞のみにかかります。いいかえると、[I had a good time]∨¬[I had a good time](=I didn't have a good time)という構造があってこそ、選言は排他性、共時分節性を獲得します。ですから逆に言うと、前者の例文では否定辞が選言に先行するので、選言作用が働く前に、否定による文の潜在的な二階層性が消滅してしまう、つまり¬[I had a good time]は単に"I had a bad time"と同値となってしまうので、選言は否定と結合できず、排他性を強く獲得することができないのです。≫
共時的な排他性は通時的な否定に先行され、それを通じてはじめて駆動する。つまりここで問題とされているのは、(古典論理学的な)言語としていったんフィックスされたものの形式や構造ではなく、その前(下)に働いている精神分析的構造である、と。
≪念を押すと、私がここで言いたいのは、選言の共時対立化は、A∨¬Aという排中律的構造によって準備される、などという形式的議論では全くなく、あくまで、一つの事象、とりわけ無意識的な、この場合は願望の対象である「よい時を過ごす」状態が、現実に否定される過程と結合して、選言の排他性が獲得される、ということです。これは、例えば主文が「人々はワインを飲まない」や「私は日記を付けなかった」だとすれば、たとえ否定辞があっても、選言の位置移動による文の意味の相違は、それほど強く現れないことからわかります。結局、ここで論じた文例では、主文が快と不快の対立に関わり、現実には否定された「よい時を過ごす」ことへの願望、つまり幻想が無意識上に居座る結果、幻想的空間で潜在的母により快と不快が推移的に結ばれ、その結果両者が分節される、通常は忘れられた原初的な光景が回帰しやすくなったのです。なお、この文例では、否定の表面構造は不快から快でなく快から不快への転化を示しますが、無意識的には、これは「よい時」の幻想的回復の過程なので、他者あるいは幻想との関係でいうと、先ほどの議論と構造的に同値です。≫
●最後のところで言われる「先ほどの議論」とは、フロイトの「fort/Da」のモデルのこと。つまりここで言われているのは、古典物理学を含めた古典論理学的な論理性は、 客観的な形式性によるのではなく(形式的にみれば分配則が成り立つことも成り立たないことも等価であった)、情動や欲望などの、それを使用する者の原初的身体状態がその根拠となっているのだ、ということになる。
≪ここまでの議論をまとめると、分配束は、情動や欲望などの身体状態や外界認知の原初的状態が、言語的位相へと射影され、共時分節化されることで可能となり、その分節は不快と快の相互転化と、それを保証する他者の幻想的現前からなる、快感原則の運動に依存していました。そしてこの分配束の成立が、真偽判断と確かさが視覚的明証性と短絡的に結合されることの、基盤となります。ここからふりかえると、精神分析的空間が非分配束化するのは、そこに登場する神経症境界例の患者たちが、幻想の効果、つまり不快から快への移行の恒常的保証をもたないことに由来するのがわかります。一般に境界例的症候は、通常の思考以上に、共時的対立の厳密な排他性に固執し、同時に思考の一挙的明証性にこだわります。これは不快が快に潜在的に転化する幻想的連続性によってこそ可能となる、概念の共時分節化の過程が彼らには欠けているので、彼らはその過程を飛び越して、すでに社会化され言語体系化された対立のみに基づき、強引に思考せねばならないからです。その根底には、暑いと寒いの連続性と対立性を、うまく両立させ分節する、非線形の熱力学的な脳の記憶分節装置自体の作動不全と、寒さから暖かさへの移行を保証する、幻想的な他者の現前、ないしその基盤としての母子の現実的身体関係の不全が存在します。つまり彼らにおいて、暑いと寒い、愛と憎しみは、言語的思考では厳密に対立しつつも、それは形式的なものなので、その補償物として、その両者が結合したままの未分節性が無意識に居座り、思考の分配束化を阻害します。それゆえ彼らは意識上では、逆に明証性に強く固執し、しかしこの阻害が一定以上強くなると、今度は無限と決定不能への偏愛へと、症候は一八〇度反転します。≫
●例えばソシュールの言うような言語の形式的な共時的対立は、実は、不快を快へと転化しようとする身体的・情動的な過程(それがそのまま、たんなる「不快」を、「快/不快」という共時対立する象徴的二項対立の一項へと移行することで、(幻想的な)能動的操作を可能としようとする幻想・象徴化の過程---要するに「fort/Da」としてモデル化された過程---でもある)と、それを保障してくれる他者(母)への信頼(幻想的現前)を基礎とすることによってはじめて成立する、ということ。ゆえに、そのような身体的・情動的な過程が「自然なもの」として成り立っていない境界例の患者などにおいては、すでに形になった形式的な共時対立(一挙的明証性や社会的な承認)が逆に過剰に厳密に求められる(樫村がアラカワ論で分析哲学を精神病的だとするのはここに由来すると思われる)。
共時対立はたんなる二項の対立ではなく、「不快」を「快/不快」という象徴的な対立に組み込むことで幻想的に解消しようとする欲望によって生じるものであり、よって、その時、二項の関係はもともと水平的なものではない。
≪一般に概念の共時的対立は、よく観察すれば水平的な対立でなく、一方が他方の否定によって得られています。例えば神/人間も、「人間」が幻想的に超越・否定される、快感原則の時間的作動の上で得られたはずです。しかしその獲得を補償した、まさに幻想と他者の力によって、主体はその共時的対立を信仰し、その下に否定の操作があること、つまりその対立の幻想性を忘れ去り、まさに絵に描いた天上と地上の分離のごとく、対立の一挙性を信じます。しかもその忘却には、幻想が解体することへの神経症的防衛も往々作用するので、概念の共時分節と、それに基づく視覚的明証性の神話は、きわめて複雑な組成を有します。認知的にみれば、A/Bの共時分節は、以後Bとなる何ものかが、「……はAでない」として記述される通時的な主述結合を経て、可能になったのは明らかなはずですが、思考はこのように幻想的力動の効果を不断に受けるので、人は予想以上に、分節と明証性の視覚的瞬間性にこだわるのです。≫
共時的な二項の対立(A/B)は、まず「A」があり、次いで後に、「xはAではない(否定)」という形で追加的に発見される「B」によって成立する時間的、段階的な演算過程であり、それはそもそも水平的、一挙的(共時的)な関係ではない(AとBとは論理階梯が異なる)。しかし人はその時間的過程を忘れ、それを一挙的、明証的に与えられた二項であるかのように信仰する。ここに古典論理学の詐術があると樫村は書いているのだと思う。ただこの詐術には複雑な神経症的な過程(幻想)が絡みついているので、その詐術の否定に人は強く抵抗する、と(例えばアインシュタインによる量子力学への否定など)。
●もちろんここでは、「それは詐術である」(「正しさ」は別にある)という告発や批判がなされているのではない。人は不可避的にそのように思考している(存在している)ということが言われているのだと思う。