●引っ越してきた頃に水が張られ苗が植えられた田んぼで、稲がきれいに刈り取られていた。夕方。
●通常、「他者」という問題は、決して「わたし」へと還元できないものという形で提示される。「わたし」からは届かない領域をもつ者、「わたし」とは別の原理をもつ者、「わたし」の原理によって翻訳し切れない残余をもつ者、等々。しかしそのような問題の提示は、実は、「他者/わたし」という二項対立を前提としたもの、つまり、そのような「既に確立した対立」を外から観察する第三の視点を前提としている。そうではなくて、実は、「わたしと他者とは明確には切り分けることが出来ない」(つまりそれは、「わたし」はわたしにおいては完結できない、ということ同じであろう)というところにこそ「他者」という問題があらわれるのだと、郡司ペギオ-幸夫は言っている(のだと思う)。これがすごく面白い。以下の引用は、昨日、一昨日と引用した樫村晴香のテキストが載っているのと同じ号の「現代思想」(96年9月号)に載っている大澤真幸との対談での郡司ペギオの発言。つまりこれも16年も前の発言だ。
≪(…)フーコーの議論を聞く者が、フーコーの議論はフーコーのものであって、自分自身のそれとは違うと思うことができ、もしくはフーコーの議論と自分自身を区別できる時に、フーコーの議論を外部観察とみなすのだと思います。常に提示された理論・言説が、理解される局面に於いて、理解されるべき言説と理解する聞き手に完全に分離されるなら、言説は外部観測の描像と受け取られるのです。このとき対象と観察者という関係が、言説と聞き手という関係で再現されます。分離されるとき、対象であるフーコーの言説はその意味の指定で完結されますが、それを理解してしまえた観察者にあっては、意味の指定をし得る能力が付与されたフーコーではない別の人間といったステータスが与えられます。ここに、フーコーの言説ではない観察者の言説が可能的に区別されるわけで、フーコーの言説は、それを観察する私とは関係のない記述になってしまいます。≫
≪内部観察を語るという方法は、この点を突いて構成されるわけです。言説を理解した刹那、その理解は言説をしたためた者の理解なのか、言説の読み手の理解なのか決定できず、いやそれは、読み手が読み手の責任に於いて理解してしまったのだ、と読み手をして理解させるわけです。このときに限り、読み手は、言説を読み手の内部、内部観測者の描像と遇するのです。先の他者の逆説的構成は、このような言説として構成されるのです。独我論から出発してこれを解体し、他者を浮かび上がらせるという方法にしても、形式的には(実在論者からみれば)私的言語の私的な破壊で、私が勝手に壊すだけです。その解体の様相を他者へとつなげる根拠などどこにもない。この破壊が他者と呼ばれる必然性などないのです。しかし、言説を理解するとは、理解する者が唯名付けることであるから、だからこそ、独我論の解体は他者へとつながり得るのです。矛盾が、ある者には退屈で悲観的な無限退行であり、ある者には新たなモデル意味論の獲得であるように、この別の結果、別の名付けが起こり得る可能性に賭けることができるのです。≫
≪私が提示する独我論の解体は、例えば実在論者からすると、矛盾それ自体であるとしますと、にも拘らず、そこに他者を見いだしてしまい、独我論内部で解釈できるような他者の起源を提示されたのだ、と理解する独我論者は、如何にしてそのような理解に到達し得たのか? この理解こそ、独我論内部で解釈できません。提示された言説の意味とは無関係な意味を、理解した者が勝手にでっち上げた様相が見いだされるのですから。こうして、私が提示する解体を通して他者を垣間見た独我論者は、自らの理解が、自らの責任に於いてなされたと悟るのです。提示した私が、私の言説の重要な意味を指定したのではなく、理解した独我論者が発見=構成したのですから。対象としての言説と観察者としての読み手は分離できないのです。≫
≪論文を発表し、理解してくれる人がいて初めて、書いているものの外側というのを理解する人がいて初めて、論文を発表した私が、他者を理解していくのです。それが非常に重要なことで、先の歴史を外から見るか内側から見るかという話に関しても、言説を理解した人が自分の立場で理解したと気付き、それに気付くことは、言説と読み手を分離したところで成立する理解を完膚なきまでに破壊してしまうことだと気付き、この理解は自分が信じていた理解とは全く違う、というくらいのショックを与えないと何もならないわけですが、しかし、このショックを与える方法に法則はないわけですから、与えようとする方は、まさしく他者に向けて発するしかないのです。≫
●≪私が提示する解体を通して他者を垣間見た独我論者は、自らの理解が、自らの責任に於いてなされたと悟るのです≫という過程と、≪論文を発表し、理解してくれる人がいて初めて、書いているものの外側というのを理解する人がいて初めて、論文を発表した私が、他者を理解していくのです≫という過程とが、分離できない裏表として発生する場にこそ、未だ「わたし/あなた」という共時対立的二項が成立する以前の、「わたしとあなたの分離」の原基があり、それこそが、その都度改めての「わたしの生成」の原基となる。
ただ、これに気付くことはそう甘いことではないとも思う。≪言説を理解した人が自分の立場で理解したと気付き、それに気付くことは、言説と読み手を分離したところで成立する理解を完膚なきまでに破壊してしまうことだと気付き、この理解は自分が信じていた理解とは全く違う、というくらいのショックを与えないと何もならない≫と語られているが、これを「理解した」後、人は、未だ「古典論理学」的な約定によって動いているようにみえるこの社会のなかで「正常」でいられるという保証はないんじゃないだろうか。
●次に引用するところなど、すごく面白いし恐ろしい。本当にこの通りだと思うし、ここまでやれなければダメなのだなとも思うのだが。いやでもこれは、作品をつくる・観るという時に、普通にいつも、誰でもがやっていることなのかもしれない。ということは、ほんとは誰でもが「正常」ではないのに、あたかも正常であるかのような体でやっていけている(時々破綻するけど…)、ということなのかも。
≪根拠付けられた語りを前提に議論を進めると、根拠とは無関係な言明可能性が現れる。この辺りで議論を止めると、もはやポスト構造主義後の時代ですから、大抵の人はもういいやという話になってしまう。そこで語れるというところから出発して、実は語れないという様相を徹底的につめていくと、語れないという論述過程によって語れてしまった形式が出現する、そういう過程全体を見せるわけです。そうすると逆にそれを理解した人は、語ってしまった・語れてしまったということの不思議さを理解することで、語れないという様相を理解する。≫