●追記。日付を間違えた。昨日の日記が今日の日記で、今日の日記は昨日の日記。
●夜中に目が覚めてしまい、なんとなく手に取ったメルロ=ポンティをつらつらと読みこんでしまう。「絡み合い---キアスム」、ちくま学芸文庫中山元・訳のやつ。みすず書房のやつよりずいぶんざっくりしていて読みやすい。ここでメルロ=ポンティが言っている「絡み合い」や「肉」というのは、レヴィ=ストロースが、外から「構造」とか「対称性」とか言っていることを、内側から描こうとしているとも言えるのじゃないかと思った。「対称性」ということを経験的、感覚的な側から記述すると「肉」ということになるのではないか。あるいは、内側から描かれたアニミズム
●以下、引用、メモ。
《見る者と見られる物体の間にある<肉>の厚みが、見る者の身体性を構成すると同時に、見られる事物の可視性を構成する。この厚みは見る者と見られる事物の間の障害物ではなく、その交通の手段である。》
《重要なのは他者の光景を構成することであるのに、問題となる事物はわたしの事物であり、よく言われるように、すべての操作は「わたしのうちで」、わたしの光景のうちで起こるというのは事実である。ところがわたしの片手が他方の手に触れるときには、それぞれの手の世界が相手の世界に向かって開かれる。この作用は反転させようと思えば反転させることができるからであり、それぞれの手はどちらも、いわば単一の意識の空間に属するものあり、一人の人間が二つの手を通じて一つの物に触れているからである。しかしわたしの両手が一つの世界に開かれるためには、両手が唯一の「意識」に与えられているだけでは十分ではない。》
《(…)単眼のそれぞれの視覚、片方の手だけによる触覚は、それぞれの独自の視覚と触覚をもちながらも、他の視覚や触覚とともに、一つの世界を前にした一つの経験を作り出すことによって、他の視覚や触覚に結びつけられているということである。そしてこれが可能であるのは、それぞれの経験を相手の言葉に変換し、逆転し、転写し、反転させることができるからであり、これによってそれぞれの小さな私密的な世界が、他のすべての小さな私密的な世界と隣接するのではなく、他の世界によって取り囲まれ、他の世界のうちに先取りされ、そしてすべての世界が一般的な「感じられるもの」一般の前に立つ一般的な「感じる者」になるからである。ところで、わたしの身体の統一性を作り出すこの一般性が、他の身体に向かって自らを開かないと考える理由はない。》
《(…)一つの生命体の内部で、さまざまな器官がともに働くことができるのであれば、複数の生命体の間で、これができないはずない。複数の生命体に固有の光景は、たがいにもつれ合い、それぞれの行動とそれぞれの情熱は、正確に調整し合う。しかしこれが可能となるためには、感じることを、根本的な形で同一の「意識」に所属することによって定義しないことが必要である。逆に感じることは、見えるものが自己に立ち戻ること、感じる者が感じられるものに、感じられるものが感じる者に<肉>として参加することだと理解すべきなのだ。この重なり合いと亀裂、この同一性と差異性が、自然の光の光線を生み出し、この光がわたしの<肉>だけでなく、すべての<肉>を照らし出すのである。》
《ここには他我(alter ego)問題は存在しない。見ているのはわたしでも、彼でもないからであり、わたしと彼に、ある匿名の可視性、視覚一般とでもいうものが住みついているからである。この一般的な視覚という原初的な特性は、<肉>に属するものであり、今ここにあるものでありながら、いたるところで永遠に光を放ち、個別的なものであると同時に、次元そのものであり、普遍でもあるものなのだ。》
《ここで初めて、何かを越えでることは、自ら越えでることだと信じられる独我論が幻想であることがあらわになる。ここで初めて、わたしという見る者が、ほんとうに見えるものとなるのである。ここで初めて、わたし自身のまなざしにおいて、わたしが底まで裏返しになって見えてくる。ここで初めて、わたしの運動が、見るべき事物、触るべき事物の方に向かうのではなく、事物を見て、触ろうとしているわたしの身体の方に向かうのではなく、身体全般に対して、自分自身のための身体に対して(それがわたしの身体であろうと、他者の身体であろうと)語りかけるのである。身体が世界の<肉>と連結されることによって、身体はそれが受け取る以上のものをもたらし、わたしが見ている世界に、他者が見ているものという必要な<宝庫>をつけ加えるのであり、わたしは他なる身体を介することで、はじめてこれを理解するのである。》
●ここまでくると、この「肉」という概念が、荒川修作の「ブランク」という概念とほとんど重なるように感じられる。両手、両目という「二への分裂/その統合」を起点として展開される点も似てる。「肉」と「ブランク」がほぼ「同じ意味」となる、というのが面白い。肉はブランクとしてあらわれ、ブランクは肉としてあらわれる。