●日付を間違えた。明日の日記が今日の日記で、今日の日記が明日の日記。
●作品を「客観的に存在するもの」として扱うのもおかしいし、かといって、「それを受け取る側の主観としてしか存在しない」として扱うのもおかしい。この捉えどころの無さこそが作品の意味ではないか。これも一種の「心身問題」だろうか。
●昨日(この日記の日付上では明日)引用したメルロ=ポンティの議論を、身体が結節点で「肉」がネットワークだと読むこともできる。しかし、身体もまたネットワークだともされる(右手と左手はそれぞれに別の触覚-感覚をもつ)。身体というネットワーク上で、異なる感覚たちの変換や転換が可能であり、それによって(異なる感覚たちが多数隣接するのではなく)、共鳴して「一つの世界」を描き出しているということが、身体が世界の「肉」へと連結していること(異なる身体たちによって共有される地平があること)の根拠とされていた。
それはどういうことか。ここで、ことなる感覚(例えば右手の感覚と左手の感覚)の共鳴が「一つの意識」による統合ではないことが重要になる(そうでなければ「世界の肉」の大いなる意識が存在することになってしまう)。右手の感覚と左手の感覚は統合されるのではなく、二つの感覚の同一性と差異としてあらわれる。右手が左手を触り、左手が右手を触る時、触る者と触られるものとの転換は可能だが、しかし決してそれが同時には起こらない(一方が「触る者」である時、他方は「触られるもの」であり、それが融合することはない)ということが重要だ、と。だから異なる感覚の共鳴は意識による統合ではなくシステム(身体というネットワーク上)にあらわれる「視差」によって可能になり、視差による身体の分裂こそが諸感覚の相互変換を促し、世界を一つのもの(共有された、一般的なもの)として開くとされる。意識はむしろその視差(同一性とズレの間の関係)の結果として生まれる産物(落差のクッション)であろう。
メルロ=ポンティでは、この右手と左手(右目と左目)の視差的関係がそのまま、ある身体と別の身体の間にも敷衍される。世界の「肉」の絡まり合い(ネットワーク)のなかで、わたしの身体とあなたの身体は、位置の変換は可能だが決して重なり合わない。身体とは、触る者(見る者)であると同時に触られるもの(見られるもの)であるという両義的な場だ。二つの身体が関係する時、わたしが「触る者」である時あなたは「触られるもの」であり、わたしが「触られるもの」である時あなたは「触る者」である。この「+、-」「-、+」の拮抗し明滅するが融合しない関係が(その視差が)、世界の「肉」のネットワークのなかで絡まり合うことではじめて世界は厚みを得、共有される《宝庫》をもち、わたしは《わたし自身のまなざしにおいて、わたしが底まで裏返しになって見えてくる》、という経験が起こる、と。
●このような、ある身体と別の身体が反転可能でありつつ決して融合しない形で絡まり合うことで世界が開かれるという描像において、ある身体と別の身体との関係が、右手と左手(右目と左目)の関係の延長として描かれる以上、それた常にペアであり、わたしとあなたという形になる。つまり二人称的な世界像となる。