●もうちょっと、『魂と体、脳』について。
●一方に、ポストモダン哲学や複雑系の科学などによる非有機体的、非中枢的な思考があり、しかしもう一方で、「わたしは死ぬ」「わたしが死んだらわたしは終わり」「かすみを食っては生きていけない」という素朴な常識によって「わたし」「中枢」「主体」という強い専制的回路への回帰(あるいは固着)がある。後者の常識的退屈さへの耐えがたさがある一方、前者の思考への「何か足りない」感がある。強い主体や強い責任によってでは世界は決してよくならないのはわかりきっているにもかかわらず、しかしそれは繰り返し瘤のように回帰し、それが消えることはない(また、あってはならないのだろうが)。
この世界に主体など存在しない。人が、蟻や蜜蜂と異なるのは、その行動に主体性(あるいは超越論性)があるからではなく、おそらく「それがあると思っている」という点だけであろう。たんに「そう思っている」だけなのだが、しかし「思っている(再帰的意識がある)」と「思っていない」はやはりとても大きな違いだろう(再帰的意識は不確実性を吸収して行動を遅延させる)。わたしはそう思っているし、あなたもそう思っているものだと、わたしは思っている。重要なのはその内実であるより、この、相互に相互を中枢(そう思っている何か)として認識し合うシステムだ(観測者の観測)。
●右手が左手に触れる、あるいはその逆。「触れる」という行為によって、触れる者が中枢(魂)となり触れられる者が身体(物質)となる。それは右手と左手(触れる/触れられる)の転換可能性と両立不能性によって成り立つ。右手と左手の間に(一人称と三人称の間に)あるのが、世界の「肉」とよばれる様々な相互関係のネットワークだ。そこで、背後を取った方(触れる)が精神となり、取られた方(触れられる)が物質となる。だがその関係は固定されず、「触れる」が起こる度にくるくる入れ替わり得る。右手と左手のどちらが精神(中枢)となるのかは、その都度の「触れる」によって決まる(「触れる」が起こらなければ決まらない)。「キアスム」という概念でメルロ=ポンティはそう言っているように読める。だとすれば、この「触れる」と『魂と体、脳』の「心身問題」はほぼ同じもののようにみえてくる。
●イベントの打ち上げの時に西川さんに「精神分析をどう思いますか」と聞いたら「ラカン好きなんですよ、この本も鏡像段階の話だとも言えるし」と言っていた。しかし西川さんの書く二者関係は前述した通りに互いに互いの「背後を取るためにくるくるまわる」ような関係だからラカンよりメルロ=ポンティに近い(鏡像段階ヘーゲルっぽい)。しかしそれは西川さんには不服かもしれない。メルロ=ポンティはあくまで「常識」を思考する感じが強いから、常識の耐えがたさによって不可能なものを思考するというドゥルーズ-西川とは違っている感じがする。西川さんは、「内部観測」はどうしても「常識」の方に着地する傾向があるから、自分はそれと違うことがやりたかったとも言っていた。
(『魂と体、脳』では一応、「共可能」や「唯一の宇宙」という常識に着地しようとするライプニッツと、そこから非常識を引き出そうとするドゥルーズという拮抗関係があるのだが、しかしそもそも、ライプニッツが常識の必然性を説明しようとするそのやり方=モナドジーがとんでもなく非常識なのだというねじれがある。だからこの本では、「非常識→常識」というベクトルと「常識→非常識」というベクトルがクロスすることで、今までとは違った「常識/非常識」の関係を描き出そうとしているとも言えるのではないか。)
《つまり、身体の中に支配的モナドは一つではない。そして、そういった瞬間、そこにある全モナドが、「魂と身体の区別」に悩む資格を与えられてしまう。理性に特権を与えていたライプニッツが、同意するかは不明だが、これもまた、モナドジーのはらむ奇妙な帰結だ。》(『魂と体、脳』)
●今までの「非常識(哲学・芸術・様々な意味の前衛)」は至るところで「常識」に敗北しつつある。常識に負けない新たな非常識を構成するためには、いままでとは違った「常識」の分析が、その描像が必要であろう。常識の強さの必然性を別のやり方で掴まなければ、別の非常識の可能性が掴み出せないから。つまり、様々な物事の別様の配置が求められなければならなくなる。常識に着地することをあくまで拒否するのならば、今までの非常識では足りない。
●「わたし」にとって「死」の問題はおそらく消えることはない。そして、死はわたしを常識に縛り付ける。ならばわたしは常に「わたし」という罠にはまる(はまりつづける)危険とともにある。わたしが、「わたし」や「死」という罠から決して自由になることがないとすれば(「このわたし」の唯一性とは、この罠の不可避性のことではないか)、わたしは、常にその罠の裏をかくことを考えつづけなければならなくなる。罠を解消してしまうことはできないが、罠にはまりつつけることはたえがたく退屈だ。
●引用される「シネマ2」でドゥルーズが問うている。耐え難いのは重大な不正などではなく凡庸さが恒久的につづくことであり、しかもその凡庸は、それを感じている彼自身と別のものではない。つまりこの世界は凡庸である。ならばそこからの「微妙な」出口とは何か、と。そしてそれは、不可能であり、しかし思考されるしかない、思考不可能なものを信じるようにして、この世界との絆を信じることだ、という。
これはどういう意味だろうか。「不可能なもの」を「信じる」ようなやり方で、この世界との絆(凡庸な常識)を信じることとは……。それは、凡庸な常識が、凡庸なままで、同時に不可能なものとなり得るのだということを「信じる」ということだろうか。
●中枢など必要ない(幻だ)というだけでは、たんに正しいだけで何かが足りない。まさに「中枢という幻」こそが人間にとって経験可能な「この世界」を出現させているのかもしれないのだし。「わたし」の「経験」は耐え難く退屈な「常識」によって構成されている。しかし、中枢など幻に過ぎないということが「正しい」ということはきっと揺るがない。「このわたし(主体)」の重要性(常識)を重たく語る言説は退屈なだけでなく醜い。それとは違う何かを。