●西川アサキ「形から逃げ出す生命、ガタリの夢、自身の死を悼むシステム」(「現代思想」8月号)を興奮しながら読んだ。エスキース的にサクサクッと書いてあるけど、細部を詰めてゆけばこれだけで充分一冊の本になるんじゃないかというくらい様々な示唆に富んでいる。
●ぼくはまずこれを何より「芸術」の問題として読んだ。
●「笑い」はシステムではない。それはシステムに内包されない一度きりの出来事である。しかし、にもかかわらず「笑い」はシステム内に階級を生み、それを固定すらするように作用する。《笑いを対話の中での不確実性の露呈および、その「上手い」処理》だと解釈する。システムに属さない(システムを危うくする)不確実性は「笑い」によってシステム内に取り込まれ、それは内部の構造を変え得る。その意味で笑いは革命的である。しかしその時「笑い」は、「上手く笑いをとれた者への信用」へと変換されて固定され、階級となる。
《恐らく「信用」とは、システムの外部をどれだけエレガントに内部に摂取できるか、その能力のことだ。だから、自然科学への信頼と、適切なタイミングで笑いを取る者への尊敬は、この観点からは区別できない。笑いは信用に変換され、社会の構造を決定する。ただしその時、原資になった笑いは消えている。残るのは澱としての階級だけだ。》
ここで「澱」という言葉がとても重要だ。「澱」とは例えば、ルーマンを参照しつつ、次のように使われる。
《(ルーマンにおいて)「経済システム」を構成するのは「経済主体」ではなく「支払い」であり、支払いに支払いが接続し続けることの反復が「システム」だと考える。だから、我々が普通に考える「経済システム=銀行など様々な制度」は、この支払いの反復が後に残す澱のようなものと位置づけられる。》
《彼の社会学では、社会の構成要素は「コミュニケーション=出来事」であって「個人=メンバー」ではない。》
●そしてルーマンは、基本的に「社会」とは「分化してゆくシステム」だと考える。《(…)元々は胚のように一体だった政治システム、経済システム、芸術システム、法システムなどが、相互コミュニケーション不能なシステムとして分化し、さらに芸術システムは、文学、絵画、音楽、……》と細分化され、互いが見えなくなってく。だから、「階級」や「銀行」などの制度は、コミュニケーションという行為が残してゆく老廃物(澱)のようなものであり、社会の分化が進むことによって澱も溜まり堆積されてゆくということになる。つまり、分化が進めば進むほど多くの澱(制度、既存の結果、過去の規則の蓄積、等々)が分厚くなってゆく。分化=老化ということになる。
●だが、分化はたんに分化としてあるだけでは済まない。分化された諸システムのもつ「力」は同等ではなく、システム間のヘゲモニー争いがある。
《(…)分化の話は、金(経済システム)、技術(科学システム)、駆け引き(政治システム)が、今の社会でもつ圧倒的なヘゲモニー、強さという「リアリズム」に届いていないように感じる。》
《ここでわざわざ「リアリズム」と言う理由は、その言葉が「他のシステムを圧する力を持つシステムの観点から、「弱い」社会システムを断罪する時」に使われるようにみえるからだ。》
《たとえば、芸術の事ばかり考えて、政治や金の事を無視する人は、「リアリスト」ではないと言われるだろうが、これは政治や金が「リアル」であるという前提を必要とする。》
《つまり、コミュニケーションが取れない程分化したはずの諸システムは、「リアル」を巡るヘゲモニー争いという「政治」に再度巻き込まれてしまう。》
つまりここで、分化され切った、老化した社会(システム)とは、澱が堆積し、諸システムが相互作用できないどに分化し、システム間のヘゲモニーが不均衡なまま固定されてしまっている社会ということになる。
●ここで、「互いにコミュニケーション不能なほどに分化した諸システムと、その間でのヘゲモニー争い」という構図が、西川さん自身の著書『魂と体、脳』における「すべて同等な諸エージェントのなかから中枢が発生するシミュレーション」のモデルと重ね合わせられる。互いに同列にある諸エージェント(モナド)が、共通するコミュニケーションのコードを持たないままに対話を続け、その結果、相手への従属、非従属を決定するという行為(交換)が繰り返されるうちに、「信用」が特定のモナドに集中し、内部にそのシステム全体の「地図」をもった唯一の「中枢」が自然発生する。『魂と体、脳』には、このようなシミュレーションモデルが描かれていた。この中枢はもともと他のエージェントたちと同等なもの(モナド)でありながら、その内部に全体の(完全ではない)地図をもつことでヘゲモニーを握る(メタレベルに立つ)ものだ。
これは例えば、細分化された社会の様々なシステムのなかで経済システムが「中枢」となることで、他のシステム(例えば芸術システム)も、その経済システム内の「地図」(つまり経済的価値)で測られる(それが「リアリズム」となる)ようになるということとパラレルである、と。
●だが、このモデルの「中枢」は、全体を表現する(メタレベルである)と同時に、もともとは一要素でしかなかったものだ(例えば「経済システム」も他のシステム同様「分化」されて出来たもので、そもそも統合するためのシステムではない)。つまり中枢は常にもともとそうであった「一要素」に戻って他の要素たちのなかに埋没して機能不全になる可能性(そうなろうとする傾向)があり、不安定である。『魂と体、脳』では、「中枢」は他の「中枢」と互いに観測し合う(互いに互いを中枢であると承認し合う)ことによって走行の安定を得ていた。《逆に言えば「孤独」なシステムは、二重化(要素でもあり、全体でもある)を安定化させることができない》。
そして、《グローバルな社会は、それを承認する「別の社会」を持てなくなってゆくだろう。つまり、それは「社会の孤独」を生む。そして、恐らくそれは「個人の孤独」と区別がつかない。》
●互いにコミュニケーション不能な程に分化(硬直化)してしまった諸システムと、そのシステム間のヘゲモニー争いに勝利することでバラバラな諸システム群を無理やり強引に束ねている「孤独な」中枢システム。現代の社会の姿が、ここではそのように描きだされている。それはまさに分化=老化というイメージであろう。出来事は澱を残す。「笑い」という出来事は、すぐさま「笑いを取る能力=信用」へと変換されて階級を生み、固定化し、規則を一つ増やし、システムを裏打ちし、老化に貢献する。では、「澱」を残さない出来事、分化とは逆向きにはたらく出来事は可能ではないのか。そこで、分化に対する未分化状態への退化(初期化)という話になる。
《ここでふと、iPS細胞の事を想い出した。(…)iPS細胞とは、成体の通常細胞に「山中カクテル(ファクター)」と呼ばれる、ある特定の遺伝子(ファクター)の「組み合わせ」を導入することで、既に分化してしまった細胞に、「(ほぼどの細胞にも分化できるという意味での)万能性」を復元させた(=初期化)細胞だ。要するに既に分化してしまったものをリセットするテクノロジーだ。》
《(…)「システム」という見方からは、細胞で可能なことは、社会やその他のシステムでも抽象的対応物があって欲しいという気分がある。》
《「退行」という言葉の一般イメージは悪い。それは大人が何とか克服した幼児期の各種バイアスを復元してしまうことや、状況に応じた仮面の使い分けを放棄することを含意するからだろう。だが、退行は一種の初期化であり、だからこそ、ある種の未分化、そして、それを代償に「万能性」を復元するのではないだろうか。》
●初期化というと、すべてをチャラにしてゼロ(未分化)に戻るというイメージにも聞こえるが(それはたんなるテロであろう)、ここで言われているのは恐らくそうでない。システムの作動のなかに分化-老化の流れと逆方向の流れをつくることは出来ないか、ということだ。あるいは、分化方向の力と退化方向の力とのバランスによる「程よい状態」の創造を考えることが出来ないだろうかということだろう。
《たとえば、「退化」の逆方向として、システムの「老化」を考えることも出来る。仮にシステムをオートポイエーシスシステムとしよう。すると、それが作動結果として排出する構造・組織・固定した規則群と、システム自体の作動は一応区別される。その時、外部の視点からは、システム自体の作動と、それが残す構造の量的な比のようなものを考えることが出来る。老いた事をなかなか内部からは実感しにくいように、老いの自覚には、色々な意味での鏡が必要だろう。ここで「鏡」とは、システムの内側からの眺めであるオートポイエーシス自体ではなく、それが残す構造の堆積となる。》
《放っておくとシステムは分化し、構造や規則を次々に排出し、その無矛盾性を維持するために硬直する。もし傾向が不可避なら、常に未分化な方向へ戻る意思を、意図的にカウンターであて続けてやらないと、APS(オートポイエーシスシステム)と構造の比率を中間に保ち続けることは出来ない。》
システムの「老い」の度合いを、システムの作動それ自体と、それが残す澱としての構造との「量的な比」としてみることが出来るというアイデアがとても面白いのだが、ここで言われているのはその「比」をほどほどの度合いで保つということであって、ゼロ(胚の状態)に戻るということではない。だがこれは、「ほどほどに」とか《中間に》とかいう言葉からの印象ほどたやすいことではないように思う。これはつまり、時間的な順行(分化)と逆行(退行)という二つの異なる方向の流れをシステムのなかで常に拮抗させておくということになる。
●だからこれは、初期化というより可塑性という感じに近いのだろうか。
●とはいえ、タイトルからみても、西川さんがどちらの方向を向いているのか、どちらに体重をかけているのか、は明らかなのだけど。
●ここからはぼく自身が勝手に考えたことだが、今までの話から考えると、芸術と文化は逆方向を向いていると言える。文化はまさに構造であり澱であって、分化の方向へ向き、時間の流れとともに様々な作例や技法や含みや洗練を蓄積させてゆく。他方、芸術は退行の方へ流れる作動であり、《「形状類似バイアス」によって常識化された視点「以外の視点」》となって「細部」へと傾き、硬直化したコードを刷新することで新たな知覚を発見し直してゆく。だが、このような見かたはあまりに単純すぎる。なにより、これだと芸術は「笑い」と変わらないものになってしまう。
確かに、文化と芸術は方向としては逆向きであろう。しかしこの逆向きの動きは、相互に絡み合い、依存し合っている。文化は確かに構造であり堆積であるが、それは、その都度のコードの刷新(出来事)としての「芸術」の堆積であろう。しかしこれだけでは、「笑い」が「笑いをとる者の信用」へと変換され、階級を生み、制度を固定するというのと同じことになってしまう。そして確かに「文化」にはそのような側面というか傾向がないわけではない(というより、強くあることを否定できない)。
一方、「芸術」は確かに退行であり初期化への動きであるが、その動力を「文化」の蓄積のなかから得ている。文化の堆積という深さのなかから、芸術はそれとは逆向きの力として発生する。芸術の初期化する力は、分化する文化的蓄積の深さのなかから生まれる。つまり、文化は芸術の「地」であり、芸術は文化の深さの糧であり原料である。芸術と文化は、逆向きの力として拮抗しながらも、互いが互いの条件となっている。互いに拮抗しつつ循環している、とは言えないだろうか。この循環によって、分化でも退化でもない「深化」を実現しているとかいうと、ちょっと文学的すぎるのか…。
文化との関係によって芸術は「笑い」とは異なるものとなり、芸術との関係によって文化は、澱の堆積(老い)が必ずしも硬直にだけ通じるのではなくなる。澱が深さを形作る。逆に言えば、文化との関係がなければ芸術は「笑い」とかわらないし、芸術との関係がなければ文化は老化と澱以外のなにものでもなくなる。よって文化と芸術は切り離せない。
でもまあ、これはちょっと理想化しすぎた言い方で、現状はどうなのよと言われれば…、うーんという感じではあるけど。
●おそらく西川さんであれば、「深さ」というようなあいまいな言葉は使わないであろう。そういう言葉を使わないために、システム論的に記述を組み立てるのだろう。
(もうちょっと、つづく)