NHKスペシャルネクストワールド」をことごとく観逃してしまっている。再放送はあるのだろうか。「サイエンス・ゼロ」は観たけど。
●読書ノート。岡本源太「眼差しなき自然の美学へ」(「現代思想」2015年1月号)
イメージはかならずしも「見られること」を前提にしていない。「眼差しなき」「(自然の)美学」というのはおそらく、ハーマンにおける「精神なき土地」における「魅力(感覚的対象)の作用」と対応している。
このテキストを読むと、「現代思想」の同じ号に載っているベルトラン・プレヴォー「コスミック・コスメティック」やエリー・デューリング「プロトタイプ」が、ハーマン「代替因果について」と深く響き合っているのが分かる。


1.


○イメージのアナクロニズムは自然と文化の分割を横断する
ユベール・ダミッシュ
→コーラルフィッュの「美しさ」こそが、ローレンツに「なぜ鮮烈な色彩を呈しているのか」を解明する試みに導いた
実証主義者は、過去の芸術作品を今日の基準にしたがって判断することをアナクロニズムと告発する
◇しかし、わたしたちが、「人間ではない動物の美しさ」を語り得るのと同様、「過去の芸術に今日からの視線を投げかける」こともできる


◆「アナクロニズム
→「時代」「社会」「文化」(という「仮構された全体性」)から抜け出す
〈(作品が呈示する)イメージの特異性〉と〈(わたしたちの)眼差しの歴史性〉
→新しい思考と経験を開く端緒となる
(一昨日の日記の「囚われの身の…」参照)


◆(ダミッシュ)「芸術作品」はそもそも
→実証性など配慮せずに過去の作品をモデルに新しいイメージをつくる(古いイメージをあたらしい作品に仕立てる)
アナクロニズムというしかない捩れた「歴史」を紡ぐ
○芸術の呈示するイメージ
「歴史的文脈から意味を与えられる」どころか「みずから歴史的文脈を〈つくりあげ〉〈含み込み〉〈先取り〉する」
→「理論的対象」としての芸術作品
(昨日の日記の「芸術作品、プロトタイプ、理論的対象」参照)


◆「イメージのアナクロニズム」が、「人間が動物の美しさを語り得るようなもの」という類比
→「イメージか、歴史のなかで時間を跨ぎ越す」のと同様、「美は、人間と動物、自然と文化の分割を横断する」
○ベルトラン・プレヴォー、トマ・ゴルセンヌ
「イメージの人類学」から「自然の美学」へ


2.


○ジョゼフ・コスース
1969年「哲学以後の芸術」(すべての芸術が概念としてのみ存在する)
1975年「人類学者としての芸術家」
→「概念」を支えている、具体的な社会制度、文化言説、政治構造への関心
(現代社会を観察し、観察行為そのものを作品化する)
→芸術活動の人類学化
→それからほどなくして「イメージの人類学」の登場
デイヴィッド・フリードバーグ(米)、ハンス・ベルティング(独)、ジョルジョ・ディディ・ユベルマン(仏)
(イメージの「形式や様式」でも「意味や内容」でもなく「機能や効果」に焦点化)
人間が生きて死ぬなかで、図像や造形をめぐる諸実践はいかなる働きをみせ、どのように「力」を及ぼすか
→「イメージの力」


◆「イメージの力」への着目
○ハル・フォスターによる批判
「人類学」の選択→妥協的言説(芸術的・理論的に曖昧→しかしその雑食性こそが魅力)→雑多なものを詰め込んだ「呪文」?
→「イメージの力」と題された二冊の書物の「対照性」
デイヴィッド・フリードバーグと、ルイ・マラン
◇フリードバーグ---複数形の「イメージ」と単数形の「力」(歴史家として→イメージに対する観者の反応の歴史)
◇マラン---単数形の「イメージ」と複数形の「力」(哲学者として→イメージを焦点に展開される言葉・思索・行為・の駆け引き)
◎フリードバーグ
古代エジプトからモダンアートまで→観者の反応の社会心理学的研究
→「イメージの力」=観者の心理的反応の惹起
(近年には認知科学的なアプローチ---人類共通の認知構造=自然本姓がイメージに普遍的「力」を与える)
◎マラン
イメージの力=歴史と文化のなかでイメージがとる特殊な布置(つまり、人類共通の普遍的構造ではない)
→イメージは、歴史と文化の形成を介してそのつど異なる力を発揮する
→さらに突き詰める(ベルトラン・プレブォー)
フリードバーグ的な心理主義の前提→「イメージに力があるのは、イメージに力があると思うから」というトートトジー
→「観者」と「イメージ」の関係(相互作用)、ではなく、「イメージそれ自体がすでに関係である」
《イメージの効力は、観者をすでに捉えて巻き込んでしまっている力関係の場ないし布置がまさにイメージであることを、つねに前提にしている》
→コスースの芸術が、「哲学モデル」から「人類学モデル」へ(普遍的概念から、それを支える個別の具体的実践へ)焦点を移したことにも重なる


○「眼差しの主体において作用する普遍的な力」から「多数のイメージ」を説明する
→のではなく、「個別のイメージ」から、「そのつど異なる多彩な力」を把握する
◆歴史・地域を越えて反復するのは「観者」である以前に「イメージ」である(「残存するイメージ」のアナクロニズム)
→イメージは(観者との関係の前に)、すでにそれ自体で「関係」である


3.


ミシェル・セール
→家畜化(相互飼い慣らし)
◇家畜化---「人類最初の所有形態」の一つで、人間の「認識の発展」をもたらす
◎「動物」---「飼い慣らされる」ことで「新しい習性」を獲得→人間に「従い」人間を「理解」する(動物の人間化)
◎「人間」---「動物に合わせる」ことで、「習慣・技能・認識」を身につけ、動物を「理解」し、動物との生活に「適応」する(人間の動物化)
→二重の生成変化
《人間がみずからの特徴を動物たちに受け入れさせようとすれば、そのすべての動物たちの特徴を受け入れることが不可欠だ》
◇人間の自然状態から文化状態への移行=「動物化
「相互飼い慣らし」の根幹→「誇示」(外観の表出)=コスメティック


◎軍艦鳥の雄の求愛---「呼びかけ」「合図」「フェイント」「臭い」等
→人間の文化(儀礼)に近接した「動物の文化」
→だから、「農園」「狩猟」「危険な遭遇」等で、双方の「文化」が容易に通じ合う
「模倣」→「巧みな置き換え」によって、別の種を、「理解」し、「知を利用する」ことを可能にする
(知は、身体、筋肉、形態、身振り、動きの外観、とともに生まれる)
◆動物のコスメティック(外観)→人間の文化と認識の起源


動物の外観→往々にして「求愛(種の保存)」「保護色・警告(個体の保存)」としてのみ説明されてしまう
→しかし(人間含む)多様な生物たちは、(分節言語なしに)多種多様な「関係」を結んできた→「渾然とした美学的な場」としての世界(ここから人間文化が発生した)
→「人間」と「動物」は、「自然/文化」の分割を横断する「イメージ」を交わし合っている
◇人間は、さまざまな動物の、羽、毛、爪、殻、貝、などを「素材」と「題材」にして、〈みずからの身体〉〈周囲の事物や空間〉を飾る
→それは、「動物」たちが、すでに「その身」を〈イメージ〉として誇示しているからではないか
◎「みずからを〈イメージ〉として差し出す」→そのつど「世界との関係」を更新している


○プレヴォ
→動物の外観は「非有機的」である
(生体の化学反応→無機的とはいえないが)「解剖学的構造」「内部の新陳代謝」から、〈比較的自立している〉
→「外観」は、身体から(わずかに)遊離している
→外観の「美的潜在性」
→(形態、眼状斑、色彩、斑点、玉虫色、は、物理的なもの、有機的なものの「たんなる状態」として生じるのではなく、つねにヴァリエーションの余地を有するなにか)
◇客観的ではないが、実在している「美的平面」の(身体からの)離脱→動物の装いは「身体」を描かない(→非物体的・ヴァーチャルな身体)
→「脱身体的イメージ」により「他の動物との多様な関係」が可能


◆「イメージ」はかならずしも〈見られること〉を想定していない
→進化論的にみれば、「生物の多様な外観」は「眼の発生」に先立つ
→「外観(イメージ)」に、〈機能〉はなかった(眼差す主体の不在)
★いかなる眼差しも存在しない世界に残存するイメージ(観者のいないイメージ)
→プレヴォー(現象学の限界→「見るもの/見られるもの」「見えるもの/見えないもの」の関係とは別のところにある「イメージの力」の探求へ)


○最初の問い
→《「〈イメージ〉が歴史のなかで時間を跨ぎ越す」ように、「〈美〉は動物/人間、自然/文化の分割を横断する」、のではないか》
○いまとなれば
→《「錯綜する歴史をみずからつくりあげる〈イメージ〉」のように、「動物・人間の〈美しいイメージ〉」は、「眼差しの存在しない世界にある」》
→イメージの問い(人類学を踏み越え、「眼差しなき自然の美学」へ)