2023/01/11

●昨日からの続き。引用、メモ。マリリン・ストラザーンにおける〈イメージの方法〉」(里見龍樹)より。

http://www.jsos.net/nlpapers/NL126_01-18.pdf

●イメージがイメージを生む(イメージの意味は「別のイメージ」によって明かされる)

《ストラザーンの議論において重要なもうひとつの点は、上でみたような、「イメージ」あるいは「感性的形態」への「客体化」というかたちでの社会関係の把握や実現が、そうしたイメージ・形態(形象)の反復的な交替・連鎖というかたちで行われるということである。『ジェンダー(贈与のジェンダー)』の少し後に書かれた『部分的つながり』(…)の中でストラザーンは、あるイメージ・形象が、別のイメージによって取って代わられ、さらにそれがまた別のイメージによって置き換えられるという交替・連鎖の過程あるいは運動を、ワグナーの用語を借りて「除去=置き換え(obviation)と呼び(…)、それを次のように規定している。》

《(『部分的つながり』からの引用)あるイメージが創出する効果は、また別のイメージとして提示されることができる。ある像(figure)は、それと対になる像(count-figure)を「生み出す」ものとして見られるのである。(…)》

《先に見たギミの加入儀礼における、<笛→男性器→樹木→内部の空洞→有袋動物→女性器>というようにジェンダー化されたイメージが次から次へと喚起・開示されるシークエンスは、こうした「除去=置き換え」の典型的な例として見ることができる。ワグナーとストラザーンにおけるこの概念において重要なのは、ちょうど、自己の内的能力、あるいは自己を構成している諸々の社会的関係が、他者におけるそのあらわれというかたちでのみ開示・実現されるという「メラネシア的社会性」のモデルにおいてと同じように、ある形態あるいはイメージの意味---それに含まれているもの---は、それがさらに別のイメージに取って代わられることによって明らかにされるという関係である。ここでは、イメージからイメージへの、いうなれば横方向の移動が想定されているのだが、これは、「意味作用(signification)」の図式に基づく通常の「解釈」、すなわち具体的・感性的なイメージ(シニフィアン)から、それが意味・表象しているもの(シニフィエ)、たとえば社会関係へと至る縦方向の運動---人類学者を含む通常の社会科学的な分析を構成するところの---とは根本的に異質である。》

●所有について。ここでストラザーンが「流れ(ネットワーク・交換)」だけでなくその「停止・切断(貝貨・モノ・人格)」を問題にしていることは重要だと思う。アクター・ネットワーク理論では、後者がどうしても希薄に思える。

《論文「ネットワークを切断する」(Strathern 1996)は、所有権、とくに知的所有権を、一方でラトゥールらのアクター・ネットワーク理論に批評を加え、他方でソロモン諸島マライタ島の南部に住むアレアレ(`Are`are)の人々の葬儀についてのドゥ=コッペの民族誌(…)を参照しつつ論じるという複雑な構成をもっている。(…)これらのイメージにストラザーンは、「流れ」とその「停止」、あるいは「ネットワーク」とその「切断」という対比、より正確には、「流れ」が「止まる」(「ネットワーク」が「切断」される)ことによってある種のイメージ・形象が形成されるという関係を見出す。ここでは『ジェンダー』において「人格」が社会関係の主要な「客体化の形態」として位置づけられていたのと同様、「人」がしばしば「血」(親族関係の実体)や財の流れを止め、貯め込む形象として見られている。そしてストラザーンの議論の要点は、西洋世界における所有権もそれと同じ「流れの停止」あるいは「ネットワークの切断」として成り立っているということにある。》

《(…)たとえ特許の申請においては、或る発明に必要な諸条件からなる、理論的には無限に広がる「ネットワーク」が、暫定的な境界付けによって「切断」されなければならない(…)。他方、こうした「切断」によって成立する、特許・所有権の対象となるモノ、たとえば加工された細胞は逆に、それを成立させたさまざまな要素から成る「ネットワーク」を集約・凝縮(condense)して含み込むものとして、「メラネシア的社会性」論における「人格」の形象と類似の仕方であらわれることになる。》

《(…)ドゥ=コッペによれば、アレアレにおいて生きた「人」は、異なる人々・世代の間で流通・循環(circulate)する「からだ」と「息」と「影」(あるいは「名前」)という3つの異なる要素からなる複合体として考えられている。こうした人の死に際しては、生前の人を構成していた他者との多様なやり取り・交換---言い換えれば「社会関係」---が停止され、諸要素はすべて貝貨に交換され清算される。このようにアレアレにおける貝貨は、「流れ」すなわち諸要素の交換・やり取りという社会関係の停止・切断を具現し、かつそうした諸関係を自らの内部に凝縮・集約して抱合するモノあるいは形象としてある。》

《このような視点は、ここでドゥ=コッペに代表されているところの、交換関係を第一義的な「社会関係」として、したがってある種特権的な記述・分析対象として位置付けてきた伝統的なメラネシア人類学に対して明確な緊張関係にある。》

●コードとイメージ(ここで、「コード」が交換関係で、「イメージ」がその停止と類比できる)

《この論文(「歴史のモノたち」)でストラザーンは、それ自体としては意味をもたない個別的な「モノ」や偶発的な「出来事」が、社会的・文化的なシステムという「文脈」の内部に位置づけられることではじめて意味を獲得するという、人類学的な物質文化研究と歴史人類学に共通する想定---そして、そうした想定のメラネシアなど他地域への無批判的な適応---を批判している。そして彼女は、モノや出来事についてのこれとは異なる見方を、ワグナーによる「コード/イメージ」という二分法を援用することで示そうとする(…)。ワグナーによれば、西洋的な社会科学を支えてきた、ある対象を「文脈」の中に位置づけて解釈するという「コード」あるいは「コーディング」の操作に対し、「イメージ」とは、ストラザーンの多くの著作がまさしく同じ用語で論じているように、通常「文脈」と呼ばれるような諸々の関係を、自らの中へと包含しているようなモノ・象徴のあり方をいう(…)。》

《ここでストラザーンが注目するのは、彼女がこれまで主流の社会・文化人類学から遠ざけられ、周辺化されてきたという博物館(…)のあり方である。というのも、美術館と同様に、展示物に対する美学的な鑑賞態度が一面で行われうる博物館は、その限りにおいて、文脈化されない「モノとしてのモノ」(…)の宇宙として、「イメージ」それ自体として保ちうる場としての意義をもっている。》

《(…しかし)こうした類似は部分的なものに過ぎず(…)博物館でのモノの形態との向き合いにおいて「われわれ」が得るのは、西洋近代における「美学」の観念がすでに含意しているように、基本的には個人的な審美的=感性的体験に過ぎない。それとは異なる、単に審美的なだけではない体験のためには、「われわれ」はそのモノに関わるメラネシアその他の地域の社会的・文化的文脈を知る必要があるが、しかしそうした知識に基づく体験は、すでに「イメージ」それ自体を離れた「コード」でしかない。こうした必然的な不一致のために「われわれ」は、いずれもそれ自体としては不十分でしかない2つの立場の間を行き来することしかできないのだ(…)。(…)「イメージ」の体験を求める上で、「われわれ」あるいは人類学者に可能なのは、「イメージ/コード」というそうした2つのアプローチの間の移動、往復運動それ自体を記述の方法へと内在化することである(…)。》

《可能なのは往復運動に過ぎないが、しかし、そうした往復運動はあくまでも可能である》。