2023/02/06

●昨日からのつづき。マリリン・ストラザーン「歴史のモノたち」(「現代思想」2016年3月臨時増刊号)から、引用、メモ。

●イメージとコンテクスト(サバ―ルの石斧)

《(…)コード化は象徴を構成する諸部分を指示し、ゆえにそれが他の象徴ともつ関係を指示することで、象徴を[説明へと]開く。コード化はイメージを解釈し、コンテクストに置くことによってその意味を拡張しつつ、[他のイメージによって]置き換える。その際に、コンテクストは、イメージの意味の一部となる。一方、イメージはその単一の形態によって、すべての参照点を置き換える。あるいはそれらと取って代わるという意味で、コンテクストをそれ自身の内に凝縮させるか、折りたたむ。》

バタグリア(…)は、マッシム地方のサバ―ルで使用される斧について、現地の人々による素晴らしい釈義を提示している。斧の刃と柄の接合角度によってできた三角形は、「行為と方向づけられた動きのイメージ」として知覚される(…)。それは過去の行為を喚起するとともに、未来の行為を予示する。サバ―ルの人々は、斧が葬儀時の饗宴の形をもつ、すなわち父方(人間の左腕)から母方(右腕)への財の水平的な動きの形をもつという。葬儀時の饗宴は、父方親族が生涯を通じて死者を扶助してくれたことを[死者の母方から父方への返礼をもって]銘記するのである。ゆえに肘[と呼ばれる斧の刃と柄の接合部]は「社会的に重要な互酬的贈与の働きにおける結節点…(そして)人、クラン、村落から外に出た貴重財が再び戻ってくる理想的なルート」(…)を表している。》

《しかし、この説明は他の説明を覆い隠している(置き換えている)。肘それ自体は、蛇を口に咥えた鳥の姿をしており、性的対立の様相を呈する神話的闘争のイメージとなっている。バタグリアは、親族間の理想的な扶助関係は、死の時点で(相続などをめぐる)親族間の個人的なコンフリクトの関係へと変容すると論じる。》

《物はある時点では「それ自体を表す」イメージとして所与のものとされ、別の時点ではさらなるイメージ(その意味はその時点では所与のものとされなければならない)を参照してコード化される。サバ―ルの斧の内に含まれた鳥-肘は、親族関係の地図としても説明されうる形をとっている。それらは斧の参照点となるとき、それ自体に所与とされる諸性質を帯びる(それは扶助のイメージであり、点の隠喩である)。しかし次に、斧を含む葬儀時の交換における扶助と返礼をめぐるやりとりの場面に顕著なように、親族関係は説明へと開かれる。そのとき、親族関係は所与のもではなくなっている。すべてはそのように続いていく。》

《重要なのは、ある解釈を他より特権化することではなく、解釈の枠組み(枠組みの隠喩)と、あくまでそれ自体でしかありえないもの(点の隠喩)の理解と関係である。》

《指示あるいは解読による説明のプロセスは、イメージから、所与とされる諸々の意味を引き出す力を奪う。これとは反対に、サバ―ルの斧それ自体は、他の表現でも言い換え可能な意味の、単なる実例ではない。むしろ、それはそれ自体がもつ特定の形態を知覚にもたらす。》

《(…)要するに、親族は彼らの関係性を互いに「説明すること」あるいは「実演すること」で、父方による扶助がもつ所与の地位を、鳥-肘のイメージにおいて反転させているのだ。ひとつの関係性は別の関係性に取ってかわられるか、置き換えられるのである。》

《イメージとして知覚される人工物、あるいは交換のようなパフォーマンスは、それに伴うコードによる説明には還元できないし、逆もまた然りである。》

《(…)ワグナーが論じた、点の隠喩と枠組みの隠喩、イメージとコードの連なりは、あらゆる種類の人工物の収縮と拡張において実現されうる。複数のイメージは、アナロジーの連続のなかで相互に置き換えあうだろう。同時に、イメージは解釈を含み、かつ解釈を引き出す。ワグナーによれば、いかなる単一のイメージも複数の意味を統合し、知覚する者の内にこの統合体を一挙に喚起するような反応を引き起こす。そして統合体は、それらの意味が他のイメージを参照して拡張される(コード化される)際に分解される。ゆえに、サバ―ルの斧が含む諸意味は、斧を貴重財として交換する母方と父方の親族との関係において実演される際に分解される。コード化は、言語的な釈義だけでなく、さらなるパフォーマンスや、モノの収集や贈与を通して達成されるのである。》

《「社会」の概念は、人々の行為を説明するコンテクストではない。ワグナー(…)がいうように、社会性はむしろ暗黙の諸慣習にあり、人々はそれに対して革新や即興を試みるのである。》

(追記。《「説明すること」あるいは「実演すること」》と書かれているように、ここで「説明」とは「対象の(客観的な)記述(≒コンテクスト内への配置)」のことではなく、説明するという行為=上演を通じて関係(≒コンテクスト)を書き換え、創り変える、ということだろう。)

●イメージの効果(経験)は、その「意味」であると同時に「力」である

《(…)「イメージは、単に言語的に説明されたり要約されたりするのではなく、目撃され、経験されうるし、そうされなければならない」(…)。そして、仮にそれが理解されるために経験されなければならないならば、「その効果の経験は、その意味であると同時に、その力でもある」(…)。バロクは依然として、言葉に懐疑的である。言葉は常に、出来事と関係を操作する試みの一部を成しており、人の動機を曖昧にみせる。それに対して---贈り物を開示する場合のように(…)---イメージの産出においては、人々は効果を生み出し、その効果によって彼ら自身が真に何者であるかを知る。なぜなら、「イメージを産出すること」は、人工物がそれを見る者の精神において特定の形態(イメージ)をとることを意味するからだ。》

《イメージは、反映的な自己知識(reflected self-knowledge)である。》

《それ(イメージ)は観察者に特定の形態を提示するが、その形態が何たるかが知られるのは、それが引き出した反応によってである。》

●かみ砕くのがとてもむずかいしが、ここにはとても重要なことが書かれている。

メラネシア人が目新しいものや予期されざるものを進んで取り入れる点は、長らく注目されてきた。彼らの際立った特徴、そして文化的な差異化の過程において重要であったことは、社会生活の遂行=上演(enactment)は常に、いくらか予期されざるものであったということだ。人々が自らに対して表象しようと努めるのは、社会性の基本原則などではなく、(…)これらの原則との関係で行為する人格の能力であった。この行為する能力は、ある種の達成として出来事を創り出す即興のかたちでパフォーマンスや人工物のうちに示されていた。この意味で、すべての出来事は革新的であるように演出された。コンテクスト化に関するメラネシア人自身の戦略は必然的に、自らをその見せ物の観衆として含んでいた。もし彼らが説明を求めたなら、それは動機(誰がどのような意図のもとで、この見せ物を制作したのか)についての説明であったろう。それは、彼らに自らが何者であるのかを知らしめたに違いない。なぜなら、彼らは西欧人との関係に入るなかで、西欧人の存在を、唯一あり得る有意義な参照、すなわち西欧人が自らに及ぼす効果の観点から解釈しただろうからである。》

《当初、白人は青白い肌の食人鬼だと考えられていた。しかし、「それから、彼が豚への返礼として、私たちに貝貨を与えたので、私たちは彼が人間だと分かった」。ここで語られていない裏の物語は、次のようなものだろう。「それから、私たちは貝貨への返礼として、彼に豚を与えたので、私たちは自分がまだ人間だと分かった」。》