●『シュタインズゲート』でもっとも面白いところは、昨日もちょっと書いたけど、「袖すり合うも多生の縁」という言葉によって表現されるような感覚を、お題目としてではなく、説得力をもって実感できるように物語が構築されているところだと思う。この物語では、一人の「まゆり」を生かすために、何十人もの「まゆり」が死ぬことになる。なぜ、そのような行為が許されるのかと言えば、生かされた一人の「まゆり」の生が、死んでしまった多数の「まゆり」をも生かすことになるということが信じられているからであろう(生かされた一人の「まゆり」が他のすべての「まゆり」の死を背負うということでもあるけど)。そして、そのような「信」を支えて(説得力を持たせて)いるのが、この作品全体の物語の構築なのだ。それは逆から言えば、今、ここでのわたしの死、わたしの失敗、わたしの挫折、わたしの絶望、わたしの無意味さが、多生(他生)でのわたしの生に対して、何かしらの貢献(共鳴)をしているという「信」であろう(桐生萌郁や阿万音鈴羽といったキャラクターによって、それは特に強く感じられるだろう)。
主人公のみる幻覚(?)のなかで「まゆり」は、「ここにいるオカリン(主人公)はきっともうすぐ死んでしまう」と言って、しかし「ここにいるオカリンは、大勢いるオカリンの一人だとも言えるし、オリジナルだとも言える」と言う。さらにそれら「すべてのオカリンは繋がっている」とも言う。この感覚は、綾波レイの言う「わたしか死んでも代わりはいるもの…」という感覚とは真逆のものだと言える。わたしは、唯一のものだから意味をもつ(唯一でなければ意味をもたない)のではなく、他の多くの潜在的なわたしとの関係のなかで、はじめて「このわたし」としての意味をもつ。綾波の言葉は過剰な内面至上主義(唯一である「このわたし」至上主義)の裏返しでしかないが、「ピングドラム」や『シュタインズゲート』はそれを乗り越えている。
輪廻という概念は、生まれ変わりという時間的なループのなかで複数のわたしとの関係をつくる。ここでは、並行する無数の世界線のなかに存在する無数の少しずつ違う「わたし」として、複数のわたしを関係づける。主人公は、タイムリープ世界線の移動によって、並行する世界をループ状に行き来することで、いわばこの二つの世界観を媒介する存在だと言える。観客もまた主人公に寄り添って、並行する世界をループとして(輪廻のように)経験する。このことによって並行する無数の「わたし」が感覚可能になり、潜在性という概念が物語化される。観客にとって、潜在的な無数の「わたし」との繋がりが感覚可能になり、それによって「世界」との繋がりも感覚可能になる。潜在的な「多生のわたし」との繋がりこそが、世界との秘密の繋がりなのだ。
勿論それは、信仰であり、世界観である。しかし、このわたしは唯一「このわたし」しかいないというのもまた、同様に信仰であり世界観であろう。
●例えば、「ピングドラム」という作品が幾原邦彦という特異な作家による傑作だとしたら、『シュタインズゲート』はアニメというジャンルの蓄積によって可能になった傑作だと言えるんじゃないだろうか(ゲームが原作なので必ずしも「アニメ」というジャンルのみということではなく「オタク文化」全般と言うべきかもしれないが)。実際、『シュタインズゲート』は「お約束」の嵐で出来ているとも言える(岡部とルカがデートする回とか、こんなに緊迫した終盤になって、こんなに緩んだ「お約束」をまだ入れてくるなんて…、と逆に感動した)。あまりにハイコンテクスト過ぎて、ハイパーコンテクスト化しているというのか。コンテクストを理解しない人でも、そのコンテクストの濃度だけは空気や気配として強力に感じとれるというのか。ぼくはゲームのことはまったく知らないし、アニメだってそれほどコアなファンというわけではないが、それでも『シュタインズゲート』からは、『うる星やつら』以降くらいからの、オタク文化としてのアニメの様々な記憶の積層が濃厚に畳み込まれていることを感じとれる。ただそこがハードルの高さにもなってしまって、その「濃さの気配」だけで、「あー、これはもう趣味として受け入れられない」と感じてしまう人もおそらく多いのだろうとは思う。でも、傑作だと思うので、「これ無理」と思っても我慢して半分くらいまでいければ、その先に未知の驚きの領域が現れると思う。