●一昨日、『シュタインズゲート』の20話から最後(24話)まで観たので、改めて1話から19話まで、DVDを借りてきてまとめて観た。最後まで観てから最初に戻ると、なんというのか、遠いところから帰ってきた感じになる。この作品は、中盤以降シリアスな展開になるけど、はじめの方はずっと、秋葉原の風俗の描写と、そのなかで、「イタい人たち」がひたすら楽しそうに遊んでいる感じとで、とても幸福なのだった。
●主人公は、自らを「狂気のマッドサイエンティスト」だとし、世界を裏で支配する「機関」という組織とたたかっているという妄想=設定によって、いわば現実を「ごっこ遊び」の空間と化して、そのなかで遊んでいる。実際にやっていることは、愚にもつかない発明品をつくっているだけなのだが。しかしそのような妄想=設定こそが、彼を実際にそのような立場(レジスタンスの勇者)にまで導くことになる。だからこれは、妄想を捨てて現実をみろという話ではなく、妄想や遊戯こそが、彼を導き、彼のまわりに仲間をあつめる。妄想や遊戯によって、常識という重力の向こう側まで導かれる。
●だがそれは、彼の望むところではない。彼はあくまで、妄想=設定のなかで、身近にいる人たちと遊んでいたいのだ。しかし、現実と重ね描きされた妄想=設定は現実と地続きであり、厳密に切り分けることはできない。妄想とは構想力でもあり得る。彼らは、遊びに夢中になっているうちに、タイムマシンの原理に行き当たってしまうし、世界を塗り替えるような陰謀にも突き当たってしまう。設定と現実がぴったりと重なり、彼が架空の敵としていた「機関」と同等の巨大な組織が、彼を現実的に「敵」として認識してしまう。
●ここで彼が、簡単に「陰謀」と戦おうと決意してしまうのならば、これは凡庸な物語となってしまう。妄想=設定が現実と重なり合ってしまったとたんに、彼には現実としての責任が生じる。彼は、自らの迂闊さの責任を背負い、自らの責任において設定と現実の結びつきを解除しようと行動する(「敵」と戦うのではなく)。設定と現実とが重なってしまうことで「仲間」の生命が失われるとしたら、それは自身の責任において解除しなければならない。後半の壮絶な戦いは、彼の個人的な責任においてなされるもので、「世界の支配構造」と戦うといった行為とは違うし、「まゆり」への「思い」に還元されるものでもない。
●だがここで彼は、世界を裏であやつる「機関」のようなものとは別の形で「世界の支配構造」と戦うことになる。それがまさに「運命」と呼ばれるようなもので、この作品においてそれは「世界線」という概念によって表現される。未来の記憶をもって過去に戻ることが出来るならば、運命など簡単に変えられると思いきや、そうはいかない。過去に影響を与えることで「世界線」が移動し、別の未来があらわれる。しかし、こまかいところは変化しても、だいたいざっくりこんな感じということは変わらない。ある日、ある人が殺された、とする。過去に介入して殺人は避けられたとしても、その人は別の理由で死ぬことになる。結果にいたる過程のバリエーションは幾通りもあり得るが、世界の方向性そのものはかわらない。
世界線とは無数の線による束のようなものであり、束そのものの方向性は細かい違いをもちながらも一定である。しかし、ある束から別の束へと分岐する地点があり、別の束の世界線へと移動することが出来れば、その人の死は回避できる。この作品では、「運命(必然)」と「それに抗うこと」は、そのように表現される。主人公は、何度も過去へとタイムリープし、その度に何度も「まゆり」の死を経験し直しながらも、少しずつ過去を変化させることで、「別の束」にある世界線への移動を果たそうとする。この作品の後半は、このような絶望的で執拗な戦いが描かれる。これは要するに、トークン(個別の事例)からタイプ(法則)を書き換えようとするような企てだとも言い得る。
●主人公は、繰り返されるタイムリープ、そしてリーディングシュタイナー(世界線が移動しても記憶が保持される)の能力によって、経験値が蓄積されてゆく。しかし、彼以外の(彼の仲間を含めた)すべての人物は、タイムリープの度に、世界線の移動の度に、記憶がリセットされてゼロからのやり直しとなる。主人公がタイムリープする度に、世界線に介入する度に、強制的に記憶を消されるということになる。だから主人公には、仲間の記憶や経験のすべてを背負わなくてはならないという責任も生じるのだ。
そうだとすれば、主人公はまったく孤独の戦いを強いられているということになる。しかしそうではないようなのだ。主人公のまわりにいる人物たちもまた、リセットされた別の世界線での記憶を、微かにではあるが残存させているらしい。あるいは、あらゆる世界線上にいる同一人物には、同一の無意識が作用し、響いていると言えるのかもしれない。別の世界線でその人物と共有した経験が、この世界線にいるその人物においても、少なくともバックグラウンドとしては作動しているかのようなのだ。この意味において、主人公はまったくの孤独というわけでもなくなる。この作品で「仲間との関係(さらに、自分自身と自分との関係)」が重要な意味をもつのは、この地点においてであろう。「他(多)生の縁」のような、他(多)生のあなた、他(多)生のわたし、との関係。
●困難な闘いの末、主人公は設定と現実とを切り離し、「まゆり」の死を回避することに成功する。しかしそれとトレードオフするかのように、その困難な闘いの最も重要なパートナーであった人を失うことになるのだが。とはいえ、ここまでで主人公の「責任」はとりあえず果たされた。しかしここで物語は終わらない。
●主人公は、責任によって強いられた行動を終え、出発点に戻ってきたと言える。まず最初に妄想があり、妄想に対する責任の過程があった。そしてそこから先に、彼の能動的な行動が始まる。だから、妄想は捨てて現実をみろ、ではなく、妄想+責任によって、はじめて能動的な行為が可能な地点に至る。それが23話と24話で語られることだろう。