●昨日もちょっと書いたけど、『シュタインズゲート』や『輪るピングドラム』の新しさの一つに、大きな話と小さな話とをどう繋げるのか、関係づけるのか、という時のそのやり方があると思う。
●例えば神山健治の作品で言えば、『攻殻機動隊』は、公安九課という公的な機関をめぐる話で、政治の話などが絡むので、はじめから「大きな話」としてある。しかし、『東のエデン』では、一方では大学のサークルの若者たちの話であり、セレソンたちをめぐる現代風俗の話でもあるという点では「小さい話」だが、もう一方で、社会や経済のあり様が、たんに物語の背景とは言えなくくらいの重要性をもっている「世直し」の物語でもある。つまりこの物語は、若者たちの活動が、社会や経済という「大きな話」に繋がっているという話であろう。だが、ここではその繋げ方が決定的に上手くいっていないように思われる。サークル「東のエデン」という小さな話と、政治や経済という大きな話をつなぐ媒介は、特別なカリスマ性をもった謎の主人公と、ミスターアウトサイドという人物によって与えられる莫大な資産と能力なのだ。これはつまり、それだけ大きく強い媒介がなければ、小さな話と大きな話がつながらないということだ。それでは、よっぽど桁外れの幸運でもないかぎり、小さなぼくたちと大きな社会が関係することはない、ということになってしまう。それに、特別に魅力的な主人公だけならともかく、ミスターアウトサイドによる上から目線がなければ大きな話に介入出来ないと言うのも、なにか嫌な感じだ。結局、いつかすごいリーダーが出てきていろんなことを一挙に変えてくれるんじゃねえの的な、スーパーマンによる世直し話になってしまって、シビアな政治的駆け引きなども描かれる『攻殻機動隊』よりも何歩も後退しているように思う。
●大きな話を大きな話として描く、または、小さな話を小さな話として描く、ということならば問題なくても、大きな話と小さな話をどのように繋げるのかというところで、躓いてしまう。今まで、小さな話と大きな話を繋げていたのは「代表」という機能だと思うけど、それが今ではもう上手く機能しなくなってしまったということなのだと思う。もう「代表」では粗すぎてダメなのだ。
●『シュタインズゲート』や「ピングドラム」がそこをどうクリアしているのかについての詳細なことは、改めてこれらの作品を観直さないと言えないけど、ざっくりと「感じ」だけを書いてみる。『シュタインズゲート』は昨日書いたみたいな、システム論的に繋げる感じだとして、「ピングドラム」について書く。テレビで各話一回ずつ観ただけだから記憶も怪しい感じで書くのだけど。
●「ピングドラム」は極めてささやかな小さな話としてはじまる。荻窪や池袋など、丸の内線沿線の詳細な描写、主人公たちの住む室内のカラフルな色彩、秀逸な食事の描写などにそれは現れている。妹の死をきっかけに、謎の宇宙生物との間で「妹の命」と引きかえに「ピングドラム」という謎の何かを見つけ出すという契約が交わされる。兄の双子が「ピングドラム」を探すなかで、様々な人物との関係が現れ、主人公たちの背景も徐々に明かされてゆく。物語は「生存戦略」という謎のキーワードからはじまり、当初、高倉家の二人の兄と妹の間の近親愛的な感触から、荻野目苹果という少女の妄想的暴走へ発展し、しかしその双方合わせても「家族」を主題とした物語であるようにみえた。
しかし途中で唐突に大きな話とつながる。「95年」に「地下鉄」でテロ事件を起こした組織で指導的な役割をしていたのが、主人公たちの両親であった、と。しかも、すべての登場人物が、実はその事件によって繋がっていたことが明らかになる。誰でもが即座に特定の事件と宗教団体を想起してしまうような現実上の大事件が、ふいにフィクションのなかに、しかもきわめて小さな話であったはずの物語のなかにいきなり導入される。しかし、「ピングドラム」のテロ事件と「地下鉄サリン事件」との関係は、ただ「95年」という特定の年代と、「地下鉄(丸の内線)」という特定の場所を共有するのみで、それ以外はあまり関係がないと言っていい。つまり、「ピングドラム」のテロ事件はあきらかに「地下鉄サリン事件」ではない。ということは、「ピングドラム」は、「この世界」の現実をベースにした物語というよりも、「ピングドラム」の世界と「この世界」とは、ある特定の時間、ある特定の場所で、何か社会的に大きなインパクトのある事件が起きたということ一点のみで交差する「別の世界」だということになる。これによって、『シュタインズゲート』で複数の世界線として表現されていたものと同じ関係が、「ピングドラム」の世界と「この世界」との間に生じる。二つの世界は互いに同等な、こうでもあり得たかもしれない別の世界となり、「ピングドラム」世界は、たんにフィクションとして「この世界」の内部に生じた「この世界」に包摂されるものではなく、この世界と共鳴関係にある、独立した別の系であるかのようになる。
つまり、「ピングドラム」は「地下鉄サリン事件」を描いた(それをモチーフとしてフィクション化した)作品ではなく、「ピングドラム」の世界で起きたある事件と、「この世界」で起きたある事件とが、同一の位置(時間と場所)を共有しているということになるのだと思う。95年・地下鉄は、この世界と「ピングドラム」世界をつなぐ交点として重要である(事件の「内容」として重要なのではない)。この点は、「ピングドラム」という特異な作品を理解するために重要だと思われる。
もう一つ言うべきなのは、「ピングドラム」の世界はきわめて限定されているという点だ。主要な登場人物以外はすべてピクトグラム的に処理され、世界はまるで丸の内線沿線だけであるかのようだ。「ピングドラム世界」は、「この世界」に比べて極めて小さい。そして「ピングドラム」世界では、「あの事件」と「あの組織」が世界の(隠された)中心として位置していて、それがすべての人物たちの関係や運命を律してしまっていると言える。あらゆる人物は、「あの事件」という隠れた秘密の繋がりによって、あらかじめ関係してしまっている。無関係な人などはじめから存在しない。つまり「ピングドラム」世界では、小さな話(家族・愛情)と大きな話(重大なテロ事件)を分離することは出来ず、あらかじめ絡まり合っている。小さな話に見えていたものこそが大きな話で、大きな話にみえていたものこそが小さな話なのだ。小さな話(関係)を書き換えることと、大きな話(関係)を書き換えることとは、まったく別のことではなく、表裏一体である。「ピングドラム」世界はそのようなものとして構築されている。
独立しつつも共鳴する系として、ピング世界とこの世界とがあるとする。二つの世界で、事件Pと地下鉄サリン事件が「同じ位置(地点)」を分け合うとする。そして例えば、ピング世界の人物である晶馬に対し、この世界で「ピングドラム」を観ている人物「私」が何かしらの共鳴を感じたとする。そして、ピング世界では晶馬はあきらかに事件Pの関係者であり、事件との関係こそが彼を彼たらしめている。とすれば、それを観て共鳴したこの世界の「私」もまた、「サリン事件」(に限らず「大きな話」)と無縁とは言えない繋がりがどこかであるという風に感じるのではないか。「ピングドラム」を観る者は、まるで『シュタインズゲート』の主人公のようにリーディングシュタイナーの能力によって記憶を保ったまま「ピングドラム」の世界線から「この世界」の世界線へ移動してきたような感じになる。これは「代表」によってではなく類比(アナロジー)によって大きな話と小さな話を関係させていると言えるのではないか。
●ああ、でもこれは、もう一度ちゃんと「ピングドラム」を観直して、もうちょっと丁寧に考えないとダメな問題かなとも思う。