●DVDで『シュタインズゲート』の22話まで観たら、もう我慢できなくなってネットで探して最後(24話)まで観てしまった。すばらしかった。物語のもっともシリアスな部分は一応22話で完結していて、最後の2話はちょっと力の抜けたオマケみたいな感じもあるけど、そのオマケの感じ(最後にシリアスになり過ぎないところ)もまたすばらしい。「確定された過去を変えずに結果だけを変えろ」というのにもしびれた。物語的な次元で言うと「エンドレスエイト」や『涼宮ハルヒの消失』との関連が感じられるけど、作品としてはやはり『輪るピングドラム』との関係において考えるべきだと思う。『シュタインズゲート』と「ピングドラム」は、似ているようで本質的に違う(物語や比喩の機能、社会の捉え方、ジンブツたちの関係性…)、しかし、違っていながらもどこか通じるところがある、という関係にあると思う。あと、『シュタインズゲート』のシリーズ構成をしている花田十輝という人が、花田清輝の孫だということを最近知った。
●ネットワークという概念によって、潜在性(ヴァーチャル)という哲学的な概念に、イメージ可能な描像(表象)を与えることができる。同様に、タイムリープ世界線の移動という物語装置によって、潜在性という概念に、物語として感覚可能な形式や手触りを与えることができる。これはシステム論的な物語というようなもので、ここでは物語の因果律を支えているものの根本的な書き換えが起こっているのではないだろうか。今までの物語でも、そのようなことを匂わせることは可能だっただろう。しかしここでは、潜在性を直接的に物語るかのようなことが可能になっていると思う。例えばベンヤミンが、《私たちが耳を傾けるさまざまな声のなかに、いまでは沈黙してしまっている声の谺が混じってはいないだろうか。私たちが愛を求める女たちは、もはや知ることのなかった姉たちをもっているのではなかろうか。もしそうだとすれば、かつて在りし諸世代と私たちの世代とのあいだには、ある秘密の約束が存在していることになる》と書くことによって示そうとしているものを、まさに「具体的事例」として示すことを可能にしているのではないだろうか。
●ここでは、個と世界の関係が従来の物語とはまったく違っている。この主人公の特別さは次の二つのことだ。(1)タイムマシンとまでは言えないが、過去に何らかの影響を与える装置をたまたまつくってしまった。(2)過去を改変すると「世界線の移動」が起こって世界が根本的に書き換えられてしまうのだが、その後にも、前の世界線での記憶を主人公だけが例外的に保持できる。そして、この二つの能力によって彼が何をしたのかと言えば、身近な友達の願いを、過去への働きかけによってかなえようとしただけだ(秋葉原から「萌え」要素が一掃される場面には愕然とさせられた)。
しかしそれによって結果として、まず、世界を支配する巨大企業と対峙せざるをえなくなり、ついにはさらに大きな、この世界全体を律する「運命」とも対峙させられることとなる(主人公は、一人の幼なじみの死を、その死を回避するためにこそ、何度も何度も反復することになる)。さらに、にもかかわらず、舞台は秋葉原からほとんど出ないし、描かれるのは狭い範囲で、主人公のごく近くにいる人たちのことだけだ。さらにさらに、にもかかわらずその小さな範囲の出来事が少しずつ変化しながら繰り返されることを通じて、世界を変えること(革命)の可能性やその意思、世代を隔てた者たちの間に存在する「秘密の約束」までを表現する。ごく身近で小さな世界と、世界全体であるかのように大きいものとが、世界線タイムリープの反復という物語装置によって、等価で双方向的なものとして媒介される。
これは、社会や歴史を扱った物語でもなく、私をめぐる小さな範囲の物語でもなく、平凡な人物を描くことである種の「典型」を示そうとする物語でもない。大きいものと小さいものの価値転倒がなされているのでもない。こごてはもう、物語が内包するものの大きさや強さと、物語が扱う範囲の時間的、空間的、主題的な大きさとが、まったく比例しなくなる。
小さな世界と大きな世界が無媒介に、直接的に接続されるのではない。例えば、風が吹けば桶屋がもうかる、という時、「風が吹く」ことと「桶屋がもうかる」ことは直接つながるのではなく、途中に多くの過程が存在する。従来の物語は、その複雑な過程のあり得る一つを、その代表として提示するだろう。あるいは、比喩として繋ぐ。しかし、システム論的な物語では、その過程は複雑過ぎて「代表」によってでは示すことが出来ないし意味がない。ではどうするか。原因と結果の間に「操作的な媒介」と「操作的な規則」を探し出して、その操作によって「遠いところのもの」に間接的に働きかけようとする。タイムリープ世界線という物語的な装置は、そのような媒介であり規則であるようなものだ。私と世界とが、どのように繋がっているのか、その因果の過程の全てを知ることは出来ないが、その間に媒介と規則性が見出されることで、何かしらの「遠いつながりがある」ことは信じられる。「風を吹かせる」ことが出来れば、「桶屋をもうけさせる」ことが、きっとできる。「信じられる」ことによって世界への行動や働きかけが可能になる。この物語において反復は、強いられた、機械的反復ではなく、主人公の意思による、運命の書き換えのための能動的反復であるのだ。それは繰り返される地獄でもあるが、その地獄を支えているのが「世界と遠くつながっているという信」であろう。そしてそれは、基本的に身近な人物との関係によって与えられるのだ。
主人公が過去に戻る度に、「世界線」は移動し世界が書き換えられる。世界線を越えて記憶を維持できるのは主人公だけなので、そこで分岐した無数の世界たちはそれぞれ孤立しているはずなのだが、反復による折り重なりが増すにつけて、孤立しているはずの複数の世界の間に共鳴が起きる。反復によって、主人公だけでなく、世界そのものまでもが経験値を増してゆくかのようなのだ。このことによってあらわれるのが「秘密の約束」であり、これによってまた、主人公に「世界とつながっているという信」を深くさせる。
そのような意味で、『シュタインズゲート』の物語は、大きなもののなかに小さなものが内包されるだけでなく、同時に小さなもののなかに大きなものが内包されるような世界として提示されていると思う。