●お知らせ。「けいそうビブリオフィル」で連載している『虚構世界はなぜ必要か?SFアニメ「超」考察』の第十三回、「量子論的な多宇宙感覚/『涼宮ハルヒの消失』『ゼーガペイン』『シュタインズゲート』(3)」が公開されています。今回は『ゼーガペイン』について書いています。以下、本文から引用します。
http://keisobiblio.com/2016/12/28/furuya13/
《『涼宮ハルヒの消失』は、世界Aと世界Bのどちらを「現実」として選択するのかを決断せよ、という物語でした。しかしその時、決断するということが一体どういうことなのかよくわからなくなります。物事の因果的な連鎖に対して、何かしらの意志をもってそれを変更しようとしたとします。しかしそもそも、何かを変えようとする意志そのものの発生が、変えようのない因果によって既に決まっていたとも考えられるのです。》
《『ゼーガペイン』は、主人公のキョウにとって、世界の底が何度も抜けるという物語です。何かを決断し、それに基づいて行動するという能動性を発揮するための基盤となる、あるいは、日々の暮らしを成立させ、そこで生起する感覚や感情や愛情に実質を与えるための基盤となるはずの、世界の枠組みそのものが、何度も崩れてしまうのです。》
《『ゼーガペイン』という物語において、「現実という地位」の崩壊と移行こそが最も強い「現実」だと言えますが、その「現実」は、あらたに現実として現れた世界と、現実の地位を失ったかつて現実だった世界とに、世界を切り分け、多層化してゆくという作用をもつと言えます。そして同時に、現時点で一次的な現実とされる基盤もまた、場合によっては崩れ、別の現実に取って代わられて二次化することがあり得るという、一次的現実の相対化をも生じさせるでしょう。つまり(…)現実が一つであるままに世界が多重化(準-多重化)するのです。》
《(…主人公の)キョウにとっては「このわたし」さえも本当のわたしではなくなり、「オリジナルのわたし」の位置を、以前の(既に失われた)自分に譲らなくてはならなくなるのです。キョウの「わたし」は、あらかじめ偽物として生まれた「わたし」なのです。》
《最終回に至って失った記憶を完全に取り戻したキョウは、「変な気分さ、16歳の記憶が二つある」と言います。そして、だからこそ「俺はもう(前のキョウのようには)潰れねえ」と。》
《(…) 前のキョウと後のキョウとは、異なる歴史を歩んだ同一人物と言えるのです。後のキョウは、オリジナルとは異なる独自の歴史を歩むことで、劣化コピーという位置からオリジナルと同等の存在となります(そのためには、一度来歴を忘却し、別の来歴を生き直した後に、再び思い出す必要があります)。そして、どちらも可能であるが、どちらかが選ばれたら他方は選べない、排他的で両立不可能な二つの歴史AとBが、一人のキョウのなかに多線的に重ね合わせられるのです。これは、多重人格のように人格が多重なのではなく、一つの人格の上に歴史が多重化されているのです。この2本の異なる来歴の線は、本来は排他的であったとしても、キョウにおいてはどちらも同等に「現実」であると言えます。どちらかが二次的な現実というわけではありません。》