●ようやくストラザーンの『部分的つながり』を読み始めることができたのだけど、最初のところに、ぼくが最近「地にはスケールがない」という言い方で考えようとしていたこととそっくりなことが書かれていて驚いた。
(でも、ストラザーンの書き方だと「地のスケールに関わらず、図の情報量は一定」ということになるのからちょっと違うのかも。いや、ちがうか、完全なフラクタル構造ではスケールが関係ないはずだから、やはり「地にはスケールがない」で、そして「フレーム(パースペクティブ)のスケールと関係なく、図の情報量は一定」ということか。)
(ストラザーンの場合、フラクタル構造を比喩として使う時に、コッホ曲線やマンデルブロー曲線ではなくカントールの塵を使っているから、ブランクが可視化されていて、そこが感覚的に納得できる。荒川修作っぽい。カントールの塵のブランクの部分を地と考えれば、地にはスケールがない、ということを直観的に示すことができる。)
●あと、清水高志さんがツイッタ―で『正法眼蔵』を訳して解説しているところも、このことととても深い関係があると思う。というか、こっちの方がぼくの感覚には近い感じだ。これだとセザンヌとも上手く繋がる。
(つまり、カントールの塵の「ブランク」と『正法眼蔵』の「海の徳」とが繋がることで、アラカワとセザンヌがつながる。)
https://twitter.com/omnivalence?lang=ja
《たとへば、船にのりて山なき海中にいでて四方をみるに、ただまろにのみみゆ、さらにことなる相みゆることなし。しかあれど、この大海、まろなるにあらず、方なるにあらず、のこれる海つくすべからざるなり。宮殿のごとし、瓔珞のごとし。ただわがまなこのおよぶところ、しばらくまろにみゆるのみなり。
かれがごとく、萬法またしかあり。(『正法眼蔵』弁道話)うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。しかあれども、うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。只用大のときは使大なり。要小のときは使小なり。
しかあるを、水をきはめ、そらをきはめてのち、水そらをゆかんと擬する鳥魚あらんは、水にもそらにもみちをうべからず、ところをうべからず。このところをうれば、この行李したがひて現成公案す。(同)
(訳)たとえば、船に乗って山のない海に出て四方を見ると、ただ円く見える。他の形が見えることはない。そうではあっても、この大海は、円いのでもない、四角いのでもない、残った海徳(海の徳)は尽くしがたい。宮殿のようであり、瓔珞のようだ。ただ私のパースペクティヴのおよぶところ、
円く見えるのである。あらゆるものがそんな風なのだ。」「魚が海をゆくとき、泳いでも海の果てはなく、鳥が空を飛ぶとき、飛んでも空の果てはない。そうはいっても、魚も鳥も、いまだ昔から水や空を離れることはない。ただ大きく用いるときは大きく使い、少ししかいらないときは少しだけ使うのだ。
そうであるのに、水〔の果て〕を極め、空〔の果て〕をきわめてから水や空を行こうとする魚や鳥がいるとしたら、水にも空にも道を得られないだろうし、居場所を得ることもないだろう。ここのところが分かれば、日々の生活が仏道の成就となるのだ。」
こんなところか。一つの客体は、複数のパースペクティヴに先んじている。。海徳というのもそうしたものだし、あらゆるものがそうした客体だ。パースペクティヴはそこから部分的に切り取られてくる。魚や鳥にとっての海や空もそうした客体だ。
魚や鳥は、「大きく用いるときは大きく使い、少ししかいらないときは少しだけ使う」という風にして、それぞれの環界を作って海や空と融和し、それらと離れることなく生きている。それは、彼らの自己制作であり、彼らが海や空を制作しているのだ。
限られたパースペクティヴしか持たないからと言って、それを足したり増したりして海や空の果てを極める必要はない。そんなことをしても、道も居場所も得られない。自分が制作し、それによって自分自身をも制作する環界は=客体は、パースペクティヴが多である以前に、一であるが全でもあるのだ。
それが例えば先の文の「海徳」であり、客体がトランセンデンタルであるゆえんなのだ。そして、あらゆる客体がそうでありうるのだ。。(道元意訳)
この「宮殿のごとし、瓔珞のごとし。」が、ライプニッツのいう(さまざまな角度から眺められる)「都市」だ。》