2022/10/28

●アニメ映画『HELLO WORLD』をNetflixで観た。この世界構造だと、原理的には何度でもどんでん返し(入れ子への繰り込み)が可能になってしまうのではないか。何度でもどんでん返しが可能な構造を持った物語が、「ここで終わる」ためには、その「構造」とは別に、ここで終わることが必然であるための何かしらの要素がないとダメなのではないかと思ってしまった。

(「わたし1」も「わたし2」もどちらも救われた―パートナーを失わなかった―ということをもって、めでたしめでたしとする、ということなのだろうと思うが、もう一回り外側に悲劇的な世界が広がっている可能性が当然のことのように想起されてしまうことを止める要素がない。)

それから、クライマックスとも言える場面で、主題歌が流れ、回想シーンがちらちらと現れ、さらに、主人公が「うおーっ」とか叫びながら力を込める、というのを見せられると、気持ちが萎えてしまう。

●面白いと思ったのは、たとえば『去年マリエンバートで』で起こっている「このわたし」と「別のわたし」の相克は、一つの「わたし」という場(というか座?)のなかで生じている。一つの「わたし」が、矛盾する複数の時空(世界)へと分離している。「わたし」という座は一つで、その内容(いつ・どこ)が複数化して食い違う。

でも、SFにおいて、「わたしの完璧なコピー」が生まれたとしても、それは「わたし」ではなくて「お前」になる。「わたしの完璧なコピー」が幸福であったとしても、それは「わたし」ではないので「わたし」が幸福とは限らない。ここには明確に不連続性がある。とはいえ、オリジナルの「わたし」もコピーの「わたし」も、どちらも「わたし」の過去についての記憶(複製が生まれる前との連続性)を持っているはずだから、どちらがオリジナルなのかを内的に知ることはできない(物理的にも完璧なコピーであるとしたら、外的にも知ることができない)。コピーが生まれた途端に、「わたしがオリジナルである」という確信が、双方どちらからも消える。

そしてこのことは、「わたし」だけではなく「世界(宇宙)」にも当てはまる。この世界の内部に、「この世界の完璧なシミュレーション」ができてしまった途端に(シミュレーションが可能だと分かった瞬間に)、無限の「入れ子世界」が可能だということになるので、「この世界」そのものがシミュレーションではない(実在=基盤である)という根拠を失う(「世界五分前仮説」というのは、このような感覚からきていると思われる)。このことが『HELLO WORLD』の物語の根拠にもなっている。

『去年マリエンバードで』でも『HELLO WORLD』でも、「このわたし」と「別のわたし」、「この世界」と「別の世界」との分裂・分岐が問題になっていると言えるが、問題の立て方というか、構えというか、そこから問題が生まれてくる基盤としての感覚は、全く異なっている。