●たとえば、巨大なショッピングモールのような施設がある。その施設に関する様々なデータを解析した結果、最も効果的なセキュリティの配置が人工知能によって算出されるとする。しかし、なぜ「そのような配置」が効果的なのかという理由は、その結果を出すために用いられた変数が膨大過ぎて、その理由(答えに至る経路)を人間が理解することはできない。しかし、実際にそのような配置を試してみると、犯罪やトラブルの件数は明らかに減った、とする。なぜそれが正しいのかは誰にもわからないが、しかしそれは正しい。
(このような、思考過程の説明が不能な「答え」の出し方は、ある意味で、「木目を読む」的な熟練した職人の「カン」のようなものに近い。)
●『さよなら神様』(麻耶雄嵩)に出てくる自称「神様」である鈴木太郎は、その根拠を一切示すことなく、いきなり「正しい犯人」を名指しする。しかし、それ以外のことは何もしない。答えが最初に示され、しかし答えがあるだけである。なぜ正しいか分からないが、絶対的に正しい答えは、われわれから自由を完全に剥奪する。
●『シュタインズゲート』において、「まゆりの死」は決定された運命(答え)であり、そこに至る経路(過程)をどんなに変えても、タイムマシンで過去に戻って何度やり直しても、同じ結果(答え)がやってきてしまう。登場人物の能動性は剥奪されている。ここで「まゆりの死」という「答え」の回避は、より遠くの世界(世界線)への移動によって実現される。つまり、世界そのものを「乗り換える」のであって、「この世界」を変えるのではない。人物には、「この世界(の因果関係)」を変える力は与えられていない。
(しかし、最終回において、観測された事柄を変えずに結果を変えること=この世界を騙すこと、によって、登場人物が自由と能動性とを発揮し得る領域が確保される。出来事とその連鎖は変わらないが「意味」が変わる。「観測される事柄=過程」をいくら変えても「結果」はかわらない、という本編の進行の逆をゆく見事な「オチ」だ。)
●『廻るピングドラム』では、「ももか」の力による「運命(世界)の乗り換え」に依存する「多蕗」や「ゆり」に対して、自分自身の行為――しかしそれは「ももか」の模倣でもあるのだが――によって「運命」を書き換える「りんご」の姿が描かれていた。ここで重要なのは、直接的な「ももかの力」ではなく、「ももかの残した日記」という媒介――その模倣――によって「りんご」の能動性が可能になったという点だろう。
●しかし、「ピングドラム」における「運命」は過去からやってくるもの(罪やトラウマによる拘束)であるが、人工知能や「神様」によって与えられる「正しい答え」は未来の方からやってくる。過去の傷に抗することより、「確定された未来(という「答え」)」に抗することの方が難しいという気がする。
圧倒的なデータ量と計算速度によって、先取りされた未来、先取りされた未来の自分の方から、現在の「わたし」に「正しい答え」がもたらされてしまうとしたら(例えば、この本を読んだお前なら、次にあの本を読むと絶対に面白いと感じるはずだ、という形で)、この「わたし」に、この「世界」のなかでやるべき何かが残されるのだろうか。
(この意味で人工知能は、「お前がこれから経験することはすべて、オレが既に経験してきたことだ」と語るような、面倒見がいいとも鬱陶しいとも言える年寄りのようだとも言える。すべてを知っている先輩は、われわれを未来の方向から抑圧する。)
●とはいえ、地球の気象状態がカオス系であり、だから天気予報(長期予報)を完璧に当たるようにするのは原理的に不可能だというのと同様に、人間の脳もカオス系であり、それを完璧にシミュレーションすることは不可能であるのかもしれない。だが、だとしても、常に気象の観測と予測を繰り返すことで、天気予報の精度が上がりつづけるのと同様に、常に「わたし」の脳の観測と予測とを繰り返すうちに、「わたし」シミュレータの精度はどんどん上昇し、稀にしか外れることがなくなるということはあり得る。だとしたら、オリジナル「わたし」の存在意義(「わたし」の未来)は、たんに「ゆらぎ」部分の些細な誤差の修正のために必要だ、という程度のことになる。
●これは、「わたし」シミュレータだけでなく、「世界」シミュレータでも同様だろう。とはいえ、世界全体をシミュレーションするためには、そのシミュレートされた仮想世界のなかにも、この「世界全体をシミュレートしているシミュレーション機械」のシミュレーションが含まれなければならないので、自己言及的な矛盾が生じる。
しかし、既にこの「わたし」という存在が、精度は低いとしても「この世界」をシミュレートしているシミュレーション機械であると言える。「わたし」は、自らの観測よって世界をシミュレートし(世界に対する地図を持ち)、そのシミュレートした世界をもとに行動を行い、行動のなかでも行われつづける観測によって世界とシミュレーションとのズレを探知し、それをもとにシミュレーションに修正や変形を加え、そこから新たな行動を組み立て……、という風に、予期と行動と観測によって世界シミュレーションを書き換え続ける。
さらに、そのような世界シミュレータ的「わたし」が世界のなかに無数にいて、相手(他人)が自分と同じシミュレーション機械であることを想定しつつ、つまり、「わたし」は相手(別のわたし)のシミュレーションとそれに基づく行動をシミュレーションしつつ、自分の行動を決定する。だから「わたし」とは、その世界のなかに、無数の世界シミュレータが存在するという世界をシミュレーションしているシミュレーション機械である。この世界は既に、それら無数の「自己言及の矛盾を抱えたシミュレーション機械」たちによる「共可能性」として成立しているとも言える。
●でも、だからこそ、世界中に無数にいるどの「わたし(=世界シミュレータ)」よりも圧倒的に優秀で優位にある世界シミュレータとして人工知能の成立は、われわれ一人一人の「行動」を不可能にしてしまうかもしれないほど、われわれの「共可能性」としての世界を大きく塗り替えてしまうものとなり得ると予測される。