●例えば、「犬も歩けば棒に当たる」ということわざの妥当性を判断する時、二つの問題があるように思う。一つは、(「図」として把握しにくい)「棒に当たらなかった」ケースの印象は残りにくく、「棒に当たった」記憶(図)の方を強く意識するので、実際に棒に当たった確率よりも高い確率で当たったような印象をもつということ。もう一つは、歩いたことによって棒に当たった確率だけではなく、歩かなかったことによって棒に当たった確率を比較しなければこのことわざの妥当性は判断できないが、固有の一匹の犬(人でもいいが)は、往々にして、歩き回る傾向にある者と、歩かない傾向にある者という風に性質が分かれるので、「ある固有の犬」という特定の視点におけるデータだけでは、「犬も歩けば棒に当たる」と「果報は寝て待て」のどちらが正しいかの判断を得ることが難しい。
成功する確率の高いやり方を正しく選択したとしても、たまたま上手くいかないこともあるし、逆に、成功する確率の低いやり方を選んでしまっても、たまたま上手くゆくこともある。しかし、人の視点は一つであり、人生が一度きりであるとするならば、人生上の大きな転機となる出来事はそうそう何度も訪れるわけではないので、その印象は強く刻まれ、その人にとっては、たまたま失敗した確率の高いやり方は悪いやり方として、たまたま上手くいった確率の低いやり方は良いやり方として、実感に刻まれることになるだろう。そうするとその人は、その後もそのような選択をする傾向をもつだろうし、後進にもそう伝えるだろう。
サイコロを振って「一」の出る確率は六分の一であり、例えば一億回振ってみれば、ほぼ正確に六分の一となるだろう。しかしもっと少ない回数、例えば十回しか振らないとすれば、もしかすると三分の一以上の高い確率で「一」が出るかもしれないし、一度も出ないかもしれない。
もし、その「十回振る」という限定(フレーム)を一つの視点、一度きりの人生とするならば、「一」が三分の一の確率で出た人にとって、この世界は「一が出やすい傾向をもつ世界」として経験され、生きられるだろう。「一、三、一、二、六、四、一、一、五、二」という目の出た「わたし」と、「六、五、三、四、六、二、三、五、六、五」と出た「わたし」とでは、「トータルではすべての目が等しく六分の一の確率で出る世界」を、まったく別の傾向や特色をもつ世界として経験するだろう。このような、サンプル数の限定によって生まれる「偏り」が「わたしの固有性」あるいは「わたしというクオリア」を生むとは考えられないだろうか。
無数の出来事のうちの一度きりの出来事、無数の一日のうちの一度きりの一日、無数のわたしのうちの一度きりのわたし、無数の星のうちの一度きりのこの星、無数の宇宙のうちの一度きりのこの宇宙。