●ずっと、なにかを忘れている気がする、21日という日付になにか気に留めていたことがらがあったはずだと思いながら思い出せないまま一日を過ごして、そうだ、横浜美術館で百瀬文の「聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと」の上映がある日だったと、と、夜に風呂にはいっている時に思い出して、あちゃー、と思う。
●わたしのもとに「A」という出来事が起こる。しかしそれは、あなたのもとに起こっていてもおかしくはない。この世界のなかに「A」という出来事が起こることが必然であったとしても、それが「わたし」のもとに起こるのか「あなた」のもとに起こるのかは偶然でしかないとする。しかしあなたは、起こらなかった(傍らにやってこなかった)「A」を想像することができない。
出来事「A」がわたしのもとに起こったのは偶然でしかないが、わたしはわたしという限定の外には出られないので、その出来事「A」こそが「わたし(わたしの一部)」となる。一回きりの「わたし」にとって、出来事が起こらなかったわたしは、わたしではなくなる。
出来事「A」が起こってもおかしくなかったあなたには出来事は起こらず、出来事が起こらなくてもおかしくなかったわたしには起こった。このような記述は既に、「わたし」という限定からはみ出している。わたしという限定に留まるならば、出来事が起こらなかったわたしはわたしではなく、あなたという限定に留まるならば、それが「起こらなかった」ということさえ意識できない。
(確率の散らばりが個へと分断されて配分され、そこに着地することで世界が具現化する。)
わたしとあなたが別人である、それぞれ個別の視点をもつ、というのはおそらくそういうことだろう。神は全能であることによって視点(≒クオリア)をもてず、我々は愚か(限定的)であることによって固有性(≒クオリア)をもつ。この物理的世界という共通の条件のなかで(その可能性を資源として)、クオリアが分離されたわたしとあなたはそれぞれ別の世界をつくってそこで生きる。
(であるならば、固有性は知を獲得するごとに目減りするのだろうか。)