●『心の哲学入門』(金杉武司)は、とてもシンプルで明快に書かれた本なので、自分がここに書かれていること(「心の哲学」)の何に納得ができないのかがよくわかった。
前にも書いたけど、「心脳同一説」によって「心」と「脳」が「同一」だと考えれば、「念力」も「因果経路の多重性」も回避出来るとされるのだけど、その代り、そうすることによって「同一」という言葉の意味がほとんど分からなくなる。明けの明星と宵の明星が「同一」であるように、心と脳とは「同一」だと言われて、なぜ納得できるのかがわからない。とりあえず無理矢理に、エネルギーと質量が「同一」であるという時の「同一」だと解釈して、仮に納得して進んだのだが、その後の記述をみるとそれはあまり適当ではないようだ。
これと同様の納得のいかなさが、その後にも何度が出てきて、この本の(つまり心の哲学における物的一元論の)納得のいかなさの核はそこにあるのだと思った。代表的な納得出来ないポイントは二つで、(1)二元論者による「知識論法」に対する反論が納得できないことと(「想定可能性論法」への反論は納得できた)、(2)一元論(行動主義・解釈主義)によって他我問題が解決されるという時の論法に納得ができないこと(二元論者の他我問題の説明は「説明になっていない」というのは納得できた)。
●「知識論法」とは次のような思考実験。仮に、この宇宙の物理的な知識を完璧に持っている科学者がいたとして、彼が生まれつき色を認識できなかったとする。その人が手術によって色覚を得て、はじめて空を見たときの「青のクオリア」は、彼に新たに加わった認識と言えるのではないか。つまり、クオリアは物理についての完璧な知識の外にある(非物理的なもの)ではないか、と。
これについての一元論者からの反論は、彼は既に「空」について完璧に知っていて、クオリアはそれを「別の定規」で計ったものにすぎない、となる。一本の同じ棒を、メートル法で1メートルだと知っていたのを、ヤード法で1,1ヤードだとわかったのであって、棒そのものについては既に完璧に知っているのだ(つまり物理の範疇だ)、と。しかし、1メートルと1.1ヤードが「同じ」という時の「同じ」という語の意味と、「客観的知識」と「クオリア」が「同じ」という時の「同じ」という語の意味が、《同じ》だという話はどうしても納得できない。これでは、「同じ志向対象」をもつ心の状態はとれも「同じ」ということになってしまわないだろうか。
●もう一つの納得できないポイント。二元論によっては説明できない「他我問題」が、一元論(行動主義・解釈主義)によってならば説明できるという話。心というのは要するに「行動」へ至るための多重化された傾向性(潜在的条件)であり、その人の行動の全体を完全に知ることが出来れば、その人の心の状態は客観的に記述できる、というのが行動主義、そしてその欠点を補強し得る解釈主義である、と書かれている(とはいえ、解釈主義は既に物理主義的な「物的一元論」とは言えず、ディスクールの理論みたいになっていて、ここにも物的一元論を維持することの困難がうかがえる)。確かに、私生活を含めたその人の行動の全てが観察できるのなら、その人の「心の状態」も外的な観察によって完全にわかるかもしれないし、例えば嘘をついていたとしても、発汗や血流の変化、脳波まで計測可能ならば、その嘘はすぐに見抜けるかもしれない。それどころか、他人のみる夢でさえ外から客観的に調べることも出来るかもしれない。しかし、ある人の「心の状態」が完全に客観的に(物理主義的に、あるいは命題的に)記述できたとしても、その記述(説明)と、その心の状態が「わたしにおいて経験される」という出来事とはまったく別のことがらではないだろうか。そうである以上、他の人には(わたしと同様の)「心の状態」があるのではなく「《説明》可能な、客観的な出来事の因果の連なりだけ」があるのだという懐疑は、行動主義・解釈主義によってでも完全には否定できないのではないか(つまり、他我問題は解消されていない)。「心の哲学」における説明は、ここにある大きな壁(三人称と一人称との間にある壁)をあたかも「無い」かのように目を瞑って、「同じ」という語によってごり押し的に通り抜けてしまっているように思える。
(とはいえ、行動主義、解釈主義それ自体はとても面白そうだという印象をうけた。この辺りについてはもっと勉強したい。)
この本でも確かに「自己知」が他者の心の状態とは違うという点が問題にされてはいる。そこで言われている自己知の特性は、(1)不可謬性(2)自己告知性(3)直接性の三つだ。ここで自己知とは、わたしは、自分が「ある心の状態」にあることを推論抜きに知っているという、二階の認識(メタ認識)のことだ。しかし「わたしの心の状態」のもっとも大きな特徴は、推論なしに直接それを知り得るということよりも、それが(説明されるのではなく)経験されるものであり、しかもこの「わたし」を他の「わたし」と取り替えることができないというところにあるのではないか。つまり「心」のもっとも大きな問題は、「わたし」は「わたしの心の状態(わたしのもつクオリア)」から決して逃げられず、あらゆるこの宇宙の物事を「わたしの心の状態」を通してしか見られないという点にあるのではないだろうか。あらゆる認識に「わたし」と「今」がまとわりつく。(1)〜(3)の問題設定では、この問題には掠ることもいないように思われる。
だが、そんなことをいくら考えても埒があかないから、外側から客観的に考えられることだけを徹底して突き詰めて考えるべきだ、という立場はあるだろうし、それについては大いに賛同できる(科学者はそういう方向でやっているのだろう)。だが、それによって「二元論」を否定することは(少なくとも現時点では)できないということもまた、確かではないか。たとえクオリアが、その志向対象の解析によって完全に客観的に説明できたとしても、「その説明」が「わたしが経験しているこの状態」と「同じ」と言えるとは思えない。クオリアが「わたしの内密的な心の状態」ではなく「世界そのもの」の客観的な直接把握だしとしても(河野哲也『意識は存在しない』にはそう主張されていた)、クオリアがそれを感じている「わたしという場(わたしという形式)」と不可分であることが否定できない限り、「非物理的存在としてのクオリア」が「無い」とは言えないのではないか。チャ―マーズが言うように、この宇宙が何故、意識抜きの、たんなる因果の果てしない連鎖ではなく、意識のようなものが存在してしまうのかを、物的一元論は説明していないように思われる。
●ぼくはここで、心物二元論の正当性を主張しているのではない(二元論にいくつもの見逃せない大きな欠点があることは、この本の記述からだけでも十分に納得できる)。そうではなく、そうだとしても二元論はそんなに簡単には否定できない、少なくともこの本に書いてあるロジックでは否定したことにならないのではないか、と言いたいだけだ。現状においては、物的一元論、物心二元論、中間的一元論(ジェイムズやベルクソンマールブランシュなど)、観念論的一元論のどれをも、完全に否定することはできないし、また、どれかによって完全に納得することもできないように思われる。
デカルトはそんなに簡単に否定できないのに、何故みんなそんなにデカルトを嫌うのか。