●数日前に、デネットとチャ―マーズの話をしていたので、本棚の奥から『「意識」を語る』(スーザン・ブラックモア)を引っ張り出してきて、電車のなかなどでパラパラみていた。この本は、「意識」についての研究で有名な科学者や哲学者たちのインタビュー集なのだが、インタビュアーであるスーザン・ブラックモアという人は、「超心理学」で学位をとり、三十年にもわたってビリーバーだったのだが、まともな成果がなかったので転向した、という人だという。この本の面白さは、まずはこの人の面白さにあると言える。
(この人は自由意思というものをまったく認めていなくて、自分の行動は自分で決めているのではなく、「わたし」は、その時々その都度ただ「勝手に起っている」ものだと考えているそうだ。)
パラパラとみていて思うのは、(当然と言えば当然だけど)「意識」に対するアプローチは二通りあって、それは、意識はすべて物理的プロセスに還元可能だという方向性(一元論)と、還元不可能だという方向性(二元論)だ。勿論、現時点でどちらなのかは誰も知らない。だからこれはあくまでアプローチ(あるいは作風)の違いであり、「こっちから出発したら一体どこまで行けるのか」をやってみる、ということだろう。しかし実際には、これはアプローチの違いというよりも、趣味、信念、あるいは信仰の違いに近いようで、それぞれが互いに対してとても排他的、攻撃的であるようにみえる。
(その、折り合いの悪い人たちのなかにするするっと入ってゆき、どちらにも対応できているインタビュアーの柔軟性と寛容性がすばらしいと思う。)
●チャ―マーズは還元不可能派で、「問い」そのものを「答え」にもってきちゃうような反則に近い論法にもみえるのだけど、面白いと思った。
《(…)世界には何があるんだろうか? 物理では、これはしょっちゅう起る。だれも、たとえば時間や空間を、時間や空間よりももっと基本的なもので説明しようとはしない。質量や電荷でも同じだ。結局どこかで、何かを基本的なものとして受け入れることになる。ぼくの見方は、一貫性をもつためには意識についても同じことを言わなきゃいけないってことだ。もし意識についての事実が、すでにぼくたちの持っている根本的な物理的性質――たとえば時間、空間、質量、電荷――から導出できないのであれば、一貫性のあるやり方は「オッケー、だったら意識は還元されるべきものじゃないんだね。還元不可能なんだ。根本的なんだ。それは世界の基本的な特性の一つなんだ」と言うことだろう。》
《もし根本的な要素としてあるのが、たとえば時間と空間と質量だけなら、意識なんてそもそも話に出てこないだろう。だから意識を図式に持ち込んで、その相関を調べようと言ってるんだ。》
《そしたら、それを統べる法則を観て、主観的体験の一人称データと、三人称的な客観的物理特性との関連性を観ることになる。いずれ、その関連性を支配する根本的な法則群ができるんじゃないかな。物理で観られる単純な根本的法則と似たような形でね。》
●つまり、この宇宙には、三人称的な物理世界とは別に、一人称的な経験世界があり、両者が密接に相関しているというイメージだろう。デカルト的な二元論とも言える。
いわゆる「ゾンビ」の話は、意識が物理的な過程の外にある可能性を示す思考実験としてある。物理的にはこの宇宙とまったく同じ組成で出来ていて、我々とまったく同じように行動する人間たちのいる世界を想定して、しかし、彼らの内面には何もない(ゾンビである)、という世界を「考える(想像する)」ことが可能だ。でも、「この世界」はそうではない。ならば、この世界にある「意識」を、物理的な過程から切り離して考えることが可能であるはずだ、と。
《みんないろいろ憶測は並べる――意識の機能ってのは計画だとか意思決定だとか情報の統合だとかなんとかさ。でもそんな仮説が提出されたとたんに、あっさり出てくる疑問は、「なぜそれを意識なしで実現できなかったんですか? なぜそういう結果をもたらす脳プロセスだけがあって、どこにも主観的な体験がないようにはできないんですか?」ということだ。そしてもちろんこの点をはっきりさせるのにゾンビを使える。》
「この世界」はそうなってはいない、というところから、一種の汎意識主義が出てくる。チャ―マーズは、情報処理の過程には意識がつきまとうと考えているようで、例えば「サーモスタット」にもごく初歩的で単純な意識があるのではないかと言う。
(たとえばラマチャンドランは、表象に関する表象、知覚に関するメタ知覚、意識に関する自意識が生じることで、はじめて「意識がある」と言えて、それをもつのは人間だけだ、考えているようだ。ならば、たんなる表象、たんなる意識は、サーモスタットも持っている、と考えることも可能ではないか。)