⚫︎「ちょっとだけエスパー」、7話、8話。普通に考えれば怒涛の展開ということになるのだろうが、ぼくはどうしても既視感ばかりを感じる感じになってしまった。それはまず、細かいところに違いが多々あるとはいえ、物語の大きな構えと、物語によって惹起される感情のあり方が、「シュタインズゲート」によって開かれた地平の枠内にとどまるもので、それを越え出る新鮮な何かが(最終話の一つ前というところまで来てもなお)あるとは思えないことからくる。
(「シュタインズゲート」が無数の並行世界とその乗り換えを前提とする世界観なのに対して、「ちょっとだけエスパー」では世界はあくまで「唯一のもの」であようだというはっきりしとた違いがある。だがだとしても、世界が唯一のものならば当然問題になるパラドクスが「揺らぎ」とか「慣性」とかいう語でなんとなく世界に吸収される設定になっているので、世界観の違いが、作品、あるいは物語としての感触の違いとしては、そんなに大きくは現れてこない、とか。)
それと、ぼくがどうしてもこのドラマに対して辛い感じになってしまうのは、おそらく『虚構世界はなぜ必要か ? 』という本を書いたからということもあるだろうと思う。ドラマの中で展開されるさまざまなアイデアの多くに対して、本で取り上げたSFアニメの中にすでに似たものがあると感じてしまっていることに気づいた。たとえば、宮崎あおいにおける「未来から来る記憶」と「現在の出来事」との二重化と食い違いをみると、ああ「ゼーガペイン」だ、と思ってしまう、とか。
(改めて「シュタインズゲート」がいかに偉大な作品であるのか、ということを思う。)
⚫︎追記。このドラマの設定では、過去のどの時点にも自由に介入できる(データを送れる)ということではなく、2055年からは、2025年の同じ日付にだけ介入できるということになっているようだ。でも、西暦とか日付とかの「暦」は、文化的・社会的に決められているもので「物理的実在」ではないはず。なぜ、物理的な問題であるはずの「過去へのデータ送信」が、文化的・社会的な取り決めである「西暦」に影響されるのかがよくわからない(もしかするとPCに内蔵されている標準的なカレンダーの問題 ? 、あるいは、太陽系、または銀河系の中での地球の位置、みたいな問題か ? )。たとえば、何話かは忘れたが2027年は「素数」だから介入できないみたいな話が出てくるが、ある年を「2027」とするのは「西暦」という社会的な決め事に過ぎなくて、たとえば日本の元号だと令和9年のはずだからべつに素数ではない。これは、重箱の隅をつつく意地悪なツッコミかもしれないが、でも、観ていて普通に「えっ」と思ってしまったことだ。
(ただし、30年前の特定の日にしか遡行できないという「縛り」は「物語構築上」では有効で、というか必要で、このような縛りがないと「涼宮ハルヒの消失」(あるいは「輪廻の蛇」)のように、過去と未来とを何周でもぐるぐる回れるなら「なんでもあり(あらゆることが事後的に説明可能)」になってしまう。)