2025-12-16

⚫︎「ちょっとだけエスパー」最終話(9話)。最後まで「既視感」を越え出るものはあまり感じられなかった。

⚫︎このドラマ特有の新しい(オリジナルな)視点があるすれば、中高年エスパー4(+1)人と若者エスパー3人との関係のあり方がちょっと面白いということくらいではないか。

このドラマは基本的に次の三つの勢力からなっているだろう。(1)大切な女性の「死」を回避するために、未来(2055年)から過去(2025年・現在)に介入して歴史を改竄しようとする男。ある意味で「過去に囚われた男」と言える。(2)現在時(2025年)において社会から「不適合」という烙印を押されて居場所(そして未来)を失った中高年たち。(3)現在時において、未来からの歴史改変を止めようとしている、優秀で将来・未来のある(エリート層と言える)若者たち。(1)による現在時への介入が、三つの勢力の抗争・関係を生み出す(つまり物語を起動させる)原因としてある。そして、この物語の「動機」そのものであるという意味では三つの勢力の外にあるが、彼女自身が自律した個であることから物語の重要なアクター(不確定要素)でもある、10年後に死を迎える「運命」にある、「死の当事者」である女性がいる。

未来だけでなく「現在」さえも奪われている(2)と、「未来」を担うであろう(3)という、通常ならばあまりかかわり合うことなく分断されている人々が、(1)の介入によって交錯するというのがこのドラマの一つのキモとしてある。このような構図そのものは面白いし、野木亜紀子的だとも思うが、それがドラマ全体としてはあまり機能していないように思う。

顕在化する物語の平面(表層)では、(1)は大人であり(3)は若者たちであるが、彼らは同時代・同世代の人であり、いわば「同じ未来」を生きる者たちであり、「同じ未来(30年後)」のあり方を争っている。対して、現在時においてすでに存在を軽んじられてしまっている(2)の人たちにとって、未来(30年後)は、もし生きているとしても(1)や(3)の人たちと同じ意味を持ってはいない。(1)と(3)とが「当事者」としてそのありようを争っている「未来」に対して、(2)の人たちは半ば「部外者」とも言える。(3)の人たちから見ると、(2)の人たちは当初はたんに(1)の手先としか思えず、つまり自律した主体ではなく「道具」に過ぎない。(1)にとっても(3)にとっても「道具」でしかない(2)が、しかし自らの自律性を自覚し、状況の中で一つの勢力(アクター)としての役割りに目覚め、行動を起こし、状況に介入する。このような過程が、このドラマの展開だと言える。

(さらに、最終話では、それまでは「保護の対象」でしかなかった女性が、自らの立ち位置を自覚して、彼女自身の「エゴイズム」を発動させることで自律したアクターとして状況に介入する。)

過去に囚われた未来の人である(1)と、未来に開かれた現在の人である(3)という、逆向きのベクトルを持った人たちの抗争があり、そこに、過去から切り離され未来を奪われ、辛うじて現在にしがみついている(だがその「現在時」すらも失おうとしている)という(3)の人たちが、「現在時」のみにかかわるアクターとして何ができるのか。いや、何ができるか、というより、どうすべきか、という問いがこのドラマのモチーフになっているように思う。

(ただそれが十分に展開されなかった、のだと思う。)

⚫︎このドラマの宮崎あおいには、二重の記憶・経験がある。一つは、未だ訪れていない未来の記憶であり、しかしそれこそがオリジナルな経験の記憶である(岡田将生との記憶)。もう一つは、オリジナルに対して時間的に先立つものの、反復・模倣でしかない経験であり、それが大泉洋との経験だ。記憶=オリジナルに対して、模倣=経験が時間的に先取りされるというねじれがここにはある。宮崎あおいは、記憶はしているが未だ経験していないことを、初体験がすでに反復・模倣・偽物であるという形で経験する。

このような記憶・経験の二重化に対して、大泉洋は(というか、このドラマは)経験=反復に対して記憶=オリジナルの方に「正当性」を与え、経験=反復を消去するという選択を行う。これは、並行世界的(「シュタインズゲート」的「ゼーガペイン」的)な解決ではなく、唯一の世界的(「エンドレスエイト」的)な解決であろう。しかし、なぜ前者ではなく後者が選ばれるのかということの必然性が、このドラマの中では見出せないように、ぼくには感じられる。

(もし、宮崎あおい大泉洋との関係の継続を選択した場合、2025年にいる岡田将生宮崎あおいと出会うことはなく、故に、10年後に彼女が事故で亡くなったとしても、岡田にとっては見ず知らずの人が亡くなっただけなので、2055年の岡田将生が2025年に介入することはなくなって、でも、そうだとすると大泉洋宮崎あおいが出会う機会がなくなってしまうから、宮崎あおい岡田将生と出会うことになり…、と、グルグル回るパラドクスが生じてしまう。このパラドクスを避けるためには、大泉洋は自ら身を引き、宮崎あおいの記憶はリセットされる必要がある、ということにはなるが。)

⚫︎あと、このドラマはジャンクション(運命の分岐)よりも、どちらかというと歴史の「慣性」の方を重視すべきみたいな主張が入っている感じが、最終話からは読み取れて(たとえば市松が「(エスパーになる薬を)俺が作らなくても他の誰かが作る」というようなことを言う、仮にアインシュタインが存在しなかったとしても、何年かは遅れるかもしれないが別の誰かが「相対性理論」を発見しただろう、そのように、科学というのは「天才の仕事」というよりは「人類全体の協働プロジェクト」という側面が強いので、そういうものなのだろうと思う)、ならば、その感覚をもう少し早めに、そして強めに出したほうが良かったのではないか、とも思った。

でも、「慣性」を強く言いすぎると決定論に近くなって「未来を変える」ということが言えなくなってしまうので、そこはバランスの問題になるが。

(もしピカソが存在しなかったとしたら、おそらく「アヴィニョンの娘たち」は存在しなかっただろうから、科学と芸術とは違うのだなあ、と思う。)