2022/01/10

●現代の映画に対して特にアンテナをはっているわけではない(むしろかなり疎遠になりつつある)ぼくでさえ、去年くらいからその評判と名前を目にすることの多くなったアメリカのインデペンデント系の映画作家ケリー・ライカートの映画がU-NEXTで何本か観られるので、とりあえず『ライフ・ゴーズ・オン 彼女たちの選択』を観た。すばらしかった。

三つの話からなるオムニバスで、それぞれの話に微妙なリンクがある。一つ目の話も二つ目の話も、基本的には「女性」であることによって、男性なら受けないでスルーできるであろう過分なストレスを負わされるという話で(娘でさえ、母親には過剰に強く当たる)、三つ目は、社会的な階層を越えた女性同士のささやかな友情が成り立つという「いい話」かと思っていたら、結局はその関係も階層の違いによって分断されてしまうという苦い結末に至る。こう書くと、主張や思想が強めの映画のようにみえるが、映画としては、本当にすばらしい描写の積み重ねが主としてあって、描写が積み重ねられた結果として、そのような状況が浮かび上がってくる。この映画を観る限りでは、ヴィム・ヴェンダースジム・ジャームッシュの系列に連なる映画で、しかもその描写の精度や感度がさらに強化されている感じ。空には常に分厚い雲がかかっていて、街中がその雲越しの重たくくすんだ光で満たされているような描写と、絶望とか悲劇にまで至らないからこそ、生活がつづいていくなかで奥歯でぐっと噛みしめるしかないような苦さをもつ物語内容とが、どちらかが一方的に強く出ないような絶妙な均衡をたもっている。

(三つのエピソードが示された後、短く、それぞれのエピソードのその後---その後というほどの展開があるわけではないのだが---が示されて終わる。しかし、「その後」の部分はない方がいいのではないかと、思ってしまった。特に、一つ目のエピソードのその後は蛇足ではないか。)

●去年の12月13日の日記で、ロメールの映画の描写について下のように書いた。

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/2021/12/13/000000

《ただここで、「描写」というものの微妙な位置を考慮する必要がある。描写は「世界の側」に属していて、描写することは「世界そのものの表現」であると言えるのか。そうではなく、描写することは、描写をする者による(描写する者の欲望による)、描写される者(物)への支配であり搾取であると言うべきなのか。支配や搾取という言葉が強すぎるとすれば、描写することは「対象の操作」だとは言えるのではないか。》

良いカットを撮るためには、状況へ介入し絶妙なコントロールを行うことが必要だし、映画を成り立たせるには映像と音響の精密な配置が必要なのは当然だ。描写、あるいは観察(観測)そのものが既に、ある特定の視点からの世界への介入・改変であり、誰の手も加えられない無垢な「世界そのもの」がある(捉えられる)ということでは勿論ない。

ただし、そのコントロールや配置を行う時の「主体」の軸が、操作者の(欲望の)側に傾いているのか、世界の側に傾いているのか、という態度の違いはあるのではないか。ロメールの描写には時々、微妙だと思うことがあるが、この映画の描写では疑問を感じるところがほとんどない、ように感じる。しかし、それは本当だろうか。描写の有り様と描写のトーンが、あまりにも見事に物語内容と均整がとれているというのは、もしかするとロメール以上に世界に対して支配的であるということは考えられないだろうか。

ロメールの興味はおそらく、「女性一般」という概念にあり、そこにその都度、個別的具体的な女性が代入される。だから常に、形式と内容の関係は恣意的(偶発的)でそこに隙間があり、だからこそ、今、ここ、この人物は、別の時間、別の場所、別の誰かでありえたかもしれないという可能性と同時にある。一方、この映画では、描写と物語内容の緊密な均整によって双方は必然的な結びつきをもち、それにより、今、ここ、この人物が、まさに、今、ここ、この人物である、ということが強く示されるようだ。

ここには結論はない。ケリー・ライカートがロメール以上に撮影対象に対して支配的だと批判しているのではない。ケリー・ライカートの、あまりにもすばらしい描写の映画に感嘆しつつ、それについて考えている時に、ふと、そうである可能性はないのだろうか、と、頭に思い浮かんでしまったということを、忘れないように書いておく、という段階に過ぎない。